2010/01/09 00:30:04
康正2(1456)年、アイヌの若者が注文した小刀をめぐって
志苔 (現在の函館)の鍛冶屋と口論となり
鍛冶屋がその小刀で若者を刺し殺したことをきっかけに
翌年にはコシャマイン親子が立ち上がりました。
和人の増加に伴い、そのうちの有力者は領主化し、その拠点は舘と呼ばれ
渡島半島南端部には12の舘が点在していました。
コシャマイン親子はこれらの舘を次々に破り、2つの舘を残すだけになりました。
残った舘の一つ花沢舘 (舘主 蠣崎季繁・かきざき)の客将であった武田信広は
だまし討ちでコシャマイン親子を破り、全滅の危機を脱しました。
この功績で武田信広は蠣崎家を継ぎ、後の松前家の祖になります。
しかし、アイヌの人たちと和人の戦いは、その後、約100年にわたって断続的に行われました。
これらの戦いのいくつかは蠣崎家氏がその統率者をだまし討つことによって終わらせたものもあります。
長期に及ぶ戦いの起因は
アイヌの人たちと和人の間の政治的あるいは経済的な不和にあったと考えられています。
蠣崎氏は和人に対する支配者としての地位を固め、本州からやって来る商船からの徴税権を確保
していきましたが、政治的そして軍事的に安定したものではありませんでした。
天文19(1550)年
「夷荻の商舶往還の法度」を定め、アイヌの人たちの懐柔と妥協をはかりました。
これによって、アイヌの人たちの長2人をそれぞれ現在の上ノ国と知内に住まわせ、
両地をもって以北をアイヌの人たち、以南を和人の居住域とし、本州商船から徴収した税の
一部をそれぞれの長に分配しました。
また、海上を航行するアイヌの人たちの船は、西は上ノ国沖、東は知内沖で、帆を下ろして
一礼し、往来するようになりました。
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