2010/01/15 00:37:51
アイヌ文化 8
安政2(1855)年、箱舘へ外国船の寄港が認められると、
その周辺を幕府が直接治めるようになり、翌年には幕府の統治
は蝦夷地とその周辺の島々に及びます。
ただし、渡島半島南西部は松前藩領のまま残されました。
その目的はロシアに対する防備の強化のほか、蝦夷地開拓や殖産興業
にありました。
徳川幕府は、アイヌの人たちが日本に帰属すること、そしてその居住地
が日本領であることをロシアに主張するために、交易や保護をとおして
アイヌの人たちを懐柔し、
さらに松前藩が禁じていた笠、蓑、草履の着用を解禁し、さらに髪形、
着衣、名前なども本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れずみ、クマの
霊送りなどアイヌの人たちの古来からの風俗、習慣を禁じようとしました。
とりわけ、2度目の統治の際には、その政策はさらに強化されましたが
アイヌの人たちの反感をかってしまいました。
アイヌの人たちが培ってきた風俗や習慣はそのくらしに深く根をおろしており、
力をもってしても簡単に変えることができないことをものがたっています。
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