2010/01/16 00:39:02
アイヌ文化 9
明治2(1869)年
明治新政府は蝦夷地を北海道と呼び改め、一方的に日本の一部としました。
そして、アイヌの人たちを「平民」として戸籍を作成し国家に編入しましたが、
そうする一方で、「旧土人」と呼び表して差別し続けました。
同じ年、北海道を治めるために置かれた開拓使は、アイヌ民族の言語や生活習慣
を事実上禁じ、和風化を強制する政策をとりました。
また、アイヌの人たちが利用してきた土地や資源を取り上げて国の財産だとしたうえ
で民間に売り払うことにし、鮭漁や鹿猟を禁止したりもしました。
脱亜入欧・富国強兵をめざす国家体制の改編とともに、生業と生活の転換を強いる
社会的圧力が急速に大きくなっていったのです。
こうした和人本位の開拓優先政策の結果、アイヌの人たちは食べるものにも困るようになりました。
農業を勧奨する事業が行われたりもしましたが、急に暮らしのしかたを変えるのは多くの場合難しい
ことでした。そして、アイヌの人たちは財産の管理能力がないと決めつけられ、土地私有や各種資産
にたいする権利が制限されました。
政府は、明治8(1875)年にロシアとのあいだで樺太・千島交換条約を結ぶと、
サハリン(樺太)や千島に住んでいたアイヌの人たちを無理やり北海道や色丹島
に移住させました。
しかし、移り住んだ人たちは急な生活の変化や病気の流行などに苦しみ、多くの人が亡くなって
しまいました。このようなアイヌの人たちの強制的な移住は、その後も各地で行われました。
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