2010/11/10 00:47:22
本州が縄文文化から稲作中心の弥生文化におおいつくされるころ、
北海道ではなお続縄文の世にあり、漁労や狩猟中心の、
しかし「縄文とはまったくちがった異種文化」が存在していた。
1913年、床屋を営む考古学者・米村喜男衛は、
網走川河口の砂丘で“かれら”を発見する。
「米村喜男衛が棒の先でそっと崩してみると、貝殻のほかに、石器、骨角器(こっかくき)、
土器などが出てきた。やがて人骨も出る。どれもが、他に類例を見ないものだった。
日本史学に,“オホーツク人”が登場する瞬間である」(「韃靼(だったん)の宴」の章より)
その地はモヨロ遺跡と名づけられた。
5~13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を
解読することに北大の研究グループが成功。
オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らす
ニブヒやアムール川下流のウリチ
と遺伝的に最も近いことがわかったというもの。
また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて
「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。
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