2010/12/19 00:05:15
ロシアが択捉島の南部・津軽藩襲撃の報告を受けた幕府は
奥羽の諸藩に派兵を求めるとともに、
蝦夷地を直轄領とし、警護体制を固めました。
1811年、南下政策を進めていたロシア軍のゴローニン海軍中将が
国後島を測量中に幕府によって捕らえられ、
日本に抑留されるという「ゴローニン事件」が起きました。
国後島に上陸したゴローニンらが南部藩に捕らえられた際
艦上でそれを見た副長リゴルドは勝ち目がないと判断し
オホーツクに引き返しましたが、翌年の1812年(文化9年)には、
再び、国後に来航しました。
リゴルドは、ゴローニンの消息が確認できなかったことから、
択捉場所から水産物を移送する途中の高田屋嘉兵衛の乗る観世丸を停船させ、
嘉兵衛をカムチャッカに連行しました。
これにより、日本とロシアの関係は最悪のものとなりました。
ロシアに連行された高田屋嘉兵衛の態度は、豪胆沈着で、ロシア人らからも
敬意を表されたと伝えられます。
カムチャッカで、嘉兵衛はロシア語を学び、リコルドに対し、
「幕府がゴローニンを釈放しないのは、先年の暴行への報復なので、
そのことを謝罪し、日本側の誤解を解く必要がある。」と説きました。
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