2010/12/20 00:59:16
高田屋嘉兵衛に信頼の念を抱いていた
リコルドもこれを容れ、三たび、国後に来航し嘉兵衛を
通じその意を幕府の吏員に伝えました。
幕府は、ゴローニン放還の条件として
ロシア長官の謝罪文、先年、略奪した兵器の返却を要求し
リコルドもこれを了承し、1813年(文化10年)9月
箱館で、シベリア総督及びオホーツク長官の弁明書を提出し
ゴローニンらは釈放されました。
もし高田屋嘉兵衛の説得が無かったならば
江戸時代に日露戦争が勃発していただろうとも言われております。
この時のオホーツク長官の書状には
「今回の事件は、国境が明らかでないことが原因なので、
日露間の国境を確定したい」との意向が示されており
この45年後の1855年(安政元年)に日魯通好条約が締結され
両国の国境は、択捉島と得撫島の間に定められました。
北方領土問題でロシアとの条約が締結された
第一号が「日魯通好条約」です。
この条約は1855年2月7日に現在の下田で調印されました。
この条約で初めて択捉島から南は日本の領土
(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島)とし、
得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されたのです。
また、第一号の「日魯通好条約」では樺太は今までどおり国境を決めず
両国民の混住の地と定められました。
1981年(昭和56年)1月6日の閣議了解により、
「日魯通好条約」の調印の日、2月7日を
毎年「北方領土の日」とすることを決めました。
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