ノモンハン事件 24
第二次ノモンハン事件
日本の戦車は、比較的装甲の薄いソ連戦車との戦闘でさえも質・量ともに苦戦を強いられた。数ではソ連軍が500両以上の戦車を投入したのに対して、日本は中戦車38両と軽戦車(九五式軽戦車)35両の73両(他に装甲車が約20両)を投入したに過ぎず、また戦車部隊が戦闘に参加した期間は、実質的には7月2日夜から6日までに過ぎなかったが、このわずか4日間で、73両の戦車のうち30両近くが撃破された。
関東軍中央は大きな損害を受けた戦車部隊を撤退させたが、これはさらに戦車を失うことで、もともと少ない戦車部隊の拡充が困難になることを恐れてのことであった。戦車部隊の撤退によって、現地部隊はますます歩兵による戦車攻撃に依存せざるをえなくなる結果となったが、多くの敵戦車を対戦車砲や野砲で撃破した。
ノモンハンの戦場では、張鼓峰に引き続き、日本の歩兵とソ連の戦車との間で対戦車戦闘が繰り広げられた。日本軍歩兵は戦車に対して対戦車砲の待ち伏せで対応、さらに地雷工兵と火炎瓶部隊が加わった。
発火性の強いガソリンエンジンを装備するソ連戦車は、火炎瓶攻撃の前にたやすく炎上した。ただしソ連崩壊後に公開された資料により、地雷や対戦車砲で行動不能になった状態で炎上させられた物は多いが、機動力を失わない状態で撃破された物はごく少ない(対戦車砲による損害が75~80%なのに対し、火炎瓶によるものは5~10%)ことが判明している。
しかしソ連戦車隊は後に戦闘隊形を変更、前衛の戦車を後衛が支援する戦術で地雷工兵や火炎瓶攻撃を封殺、その成功率を激減させた。なお昔から日本語の資料では「機関部の周囲に金網を張って火炎瓶避けにしたり、発火性の低いディーゼルエンジン装備の戦車を配備すると、効果がなくなった」などと記述されているが、過去・近年のソ連・ロシア側からの研究ではこういったことは全く記述されていない。またBT自体もより詳しく考証され、ディーゼル型のBT-7M(後にBT-8)はノモンハン事件より後の12月から軍に引き渡されたことが記録されているなど、時期的にも否定的な要因が多い。