- 2025/01/22 [PR]
- 2014/06/11 戸田公園
- 2012/11/17 厚田村(あつたむら) 11 子母沢寛のふるさと三部作
- 2012/11/16 厚田村(あつたむら) 10 異父兄弟・三岸好太郎
- 2012/11/12 厚田村(あつたむら) 9 「街道を行く」
- 2012/11/02 厚田村(あつたむら) 8 厚田村聚富
- 2012/10/28 厚田村(あつたむら) 7 池田潤之輔
- 2012/10/27 厚田村(あつたむら) 6 佐藤松太郎
- 2012/10/25 厚田村(あつたむら) 5 第43代横綱・吉葉山
- 2012/10/24 厚田村(あつたむら) 4 厚田資料館
- 2012/10/23 厚田村(あつたむら) 3 梅谷十次郎
2012/11/17 07:24:12
厚田村(あつたむら) 11
厚田村は明治以降、異色の人物を生んでいる。
全国から移民をしてきた北海道の縮小版ともいえる。 厚田公園に創価学会二代目会長の戸田城聖の生家が保存公開されている。
推理作家の楠田匡介や横綱吉葉山もここで生まれた。
松山善三は「厚田村」で佐藤松太郎を描いたが、家督を継いだ佐藤正男から
奨学資金を得て札幌の北海中学で学んだのが島木健作と和田芳恵だった。 子母沢寛は伊藤整との「道産子対談」の中で、次のように話している。
「北海道特有のものと江戸から持ち込まれたものとが入り混じった2つの
雰囲気が村にはありましたね。ぼくのおやじは漁場を持っていて、そのうえに
宿屋を経営し、さらに東北方面からの出稼ぎ漁夫相手の女郎部屋もやってたようです。
(中略) この老人たちが、江戸のことをなつかしがって話しているのを、はたで聞いて
いたおかげで、江戸など全然関係ない北海道の寒村にいたぼくが、江戸を舞台にした
小説をかけるんですからね」
この老人たちとは、幕末に江戸(上野・彰義隊)で敗れ、箱館(箱館戦争)で敗れて
厚田に逃れてきた7人の江戸の侍たちのこと。
その頭格が子母沢寛の「おやじ」だった。 幕末から明治維新にかけての歴史小説で、子母沢寛の影響をうけなかった人は
いないという。司馬遼太郎もその一人だった。 子母沢寛のふるさと三部作は、
「厚田日記」「蝦夷物語―或る二人の敗走者」「南に向いた丘」明治の厚田村が、語られている。
(写真は鰊番屋で使われていた蠅取り器)
2012/11/16 09:29:15
厚田村(あつたむら) 10
子母沢寛(しもざわ かん)と異父兄弟・三岸好太郎について。
寛(本名・梅谷松太郎)は明治25年2月1日に厚田村で生まれた。
生母は三岸イシだが、生後ほどなく祖父梅谷十次郎、祖母スナに引き取られた。
三岸イシは、厚田村から札幌に出て11年後に好太郎を生んだ。
好太郎は今の札幌南高校ころから公募展で入選をし、卒業後東京に出るや
天才の評判をよぶ洋画家となった。
19歳(大正11年)の時に女子美で知り合った吉田節子と21歳で結婚する。
(節子とは1999年、94歳で亡くなった三岸節子画伯)。
好太郎は31歳で胃潰瘍が悪化し、心不全で急死してしまう。
現在、三岸好太郎美術館は北海道知事公館の敷地内にある。
三岸好太郎は一度も厚田村を訪ねたことはなかったが、出生地は「石狩ルーラン16番地」
と書いている。それだけ、母親から厚田村の話を聞いていたのだろう。
子母沢寛は新聞記者となるが11歳年下の好太郎を何かと世話をしたという。
(写真は三岸好太郎の画・札幌大通公園 昭和7年)
2012/10/23 07:50:18
厚田村(あつたむら) 3
明治時代に入ると、本州から続々と集団移民が始まり、
厚田にも多くの人々が入植した。
明治4(1872)年以降、山形県14戸をはじめとし山口県127戸、石川県42戸、
兵庫県30戸のほか、南部団体(岩手、青森県)、新潟県などから入り、
望来(もうらい)、聚富(しゅっぷ)(しっぷ)、発足(はったり)、正利冠(まさりかっぷ)
などで開墾が進んだ。
そのような中に、彰義隊に参加し箱館戦争に敗れ捕虜となり釈放された
梅谷十次郎(通称斉藤鉄太郎又は鉄五郎)がいた。
彼は子母澤 寛(本名・梅谷 松太郎)の祖父である。
網元となり、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営し村の顔役となり、
御家人くずれのやくざ風な人だったらしい。
(写真は、今の厚田漁港の朝市)