2013/02/10 16:24:40
松前藩屋敷
最北の城下町・松前
「松前の五月は江戸にもない」
とうたわれ、幕末には八千戸三万人の人口があり、仙台以北最大の都市といわれた。
北前船が走る海の道を、産物や文化が行き来し、
北の辺地に豊かで華やかな町が生まれたのです。
松前藩屋敷に再現された江戸時代の町並みは、全部で十四棟。
珍しい海の関所「沖の口奉行所」、藩士の屋敷を再現した「武家屋敷」
商人の活躍が目に浮かぶ「廻船問屋」「商家」、
にしん漁に挑むヤン衆の声が聞こえてきそうな「番屋」「漁家」など見所はいろいろ。
郷土の料理が味わえる「たべもの屋松前亭」のほか、
木工品づくりや桜押し花づくり、甲冑の着付けなどの体験メニュー以下
煎餅の実演販売など楽しさいっぱいのテーマパークです。
最北の城下町・松前
「松前の五月は江戸にもない」
とうたわれ、幕末には八千戸三万人の人口があり、仙台以北最大の都市といわれた。
北前船が走る海の道を、産物や文化が行き来し、
北の辺地に豊かで華やかな町が生まれたのです。
松前藩屋敷に再現された江戸時代の町並みは、全部で十四棟。
珍しい海の関所「沖の口奉行所」、藩士の屋敷を再現した「武家屋敷」
商人の活躍が目に浮かぶ「廻船問屋」「商家」、
にしん漁に挑むヤン衆の声が聞こえてきそうな「番屋」「漁家」など見所はいろいろ。
郷土の料理が味わえる「たべもの屋松前亭」のほか、
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2012/09/12 01:21:03
はるかに見えるのは龍飛岬。
白神岬(しらかみみさき)
松前郡松前町にある北海道最南端の岬である。(国道228号線沿い)
津軽半島の最北端である竜飛崎より19.2キロメートルの距離があり、
そこを結んだ東側の地下に津軽海峡線が通過する青函トンネルがある。
青函トンネルが上陸するのは福島町。
白神で生まれ育った「村上清一」の文学碑が刻まれている。
「海底下の列車のひびきも聞こえきて白神岬はさざ波の列」
また、伊藤整も松前郡炭焼沢村生まれ。
「私の生まれたところは、北海道の最南端、白神岬のある白神村である。
そこは昔の松前藩の城下町であった福山町から近いところであった。
今、福山町は松前町と名前を変え、白神村はその字の一つとなった。
白神岬は灯台のある淋しい村で(中略)私はこの村で生まれたのだが、
何の印象も持っていない。
しかしここは私の母の生誕地であり、今も親戚が何軒かあるので、
生まれ故郷はそこだという気持ちはある。」
(随筆「小樽・白神岬」より
2010/01/30 00:33:31
武田信広(たけだ のぶひろ)
室町時代の武田氏の一族。
若狭国の守護大名であった武田信賢の子。
享徳3年(1454年)8月28日生駒政季を奉じて南部大畑より
蝦夷地に渡り、上ノ国花沢館の蠣崎季繁(かきざき)に
身を寄せた。
その後蠣崎季繁に気に入られてその養嗣子となった。
このとき、蠣崎信広と改めている。
1457年にはアイヌ民族による日本武士の館への
一斉襲撃があり、日本武士団とアイヌ民族の間でコシャマインの戦い
が開戦した。
開戦当初は、奇襲攻撃をくらった日本の武士たちが追い詰められて
いたが、蠣崎季繁のもとにいた武田信広が日本武士たちをまとめ
あげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとう
アイヌ軍総大将コシャマインの首も討ち取った。
この功績により武田信広の蝦夷地における地位は決定的となった。
1462年には勝山館を築城している。
1475年に、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太を支配下に
置いたとされるが、勢力から考えても実効支配していたとはいえず、
半ば放置されていたといわれる。
1494年6月23日に64歳で死去。
子孫も着実に蝦夷地の平定を進めていき、のち松前氏と改姓して
江戸時代には蝦夷地を支配するに至っている。
2010/01/26 00:36:49
松前町 4
コシャマインの蜂起
『新羅之記録』によれば、康正二年(1456年)から
翌年にかけて、道南地方に居住する和人と、先住のアイヌとの間
に大きな戦争が起きました。
この戦いの発端は、箱館(函館)近くで、
和人の鍛冶屋がアイヌの人を刺殺したことがきっかけとなっています。
しかし、その背景を考えるとアイヌの人たちが居住する平和な島に、
侵入定着した和人が増加し、経済的優位を誇って館を構え、武力を
持ち横暴を強めることに対して、アイヌの反発が蜂起の原因である
と推測されます。
この当時道南地方には12の館(たて)がありましたが、
東部の大族長コシャマインを中心とするアイヌの人たちが団結し、
これらの館を攻撃しました。
各館は次々と落とされ、茂別館(上磯町茂辺地)と花沢館(上ノ国町勝山)
のみが残り、和人たちは次々とこの二つの館に逃れました。
このとき、花沢館にいた武田信広(松前家の祖)がわずかな兵を
率いて進撃し、上磯町七重浜付近でコシャマイン父子を倒しました。
これによりアイヌは敗れ、松前氏の蝦夷地での発展の基礎が築かれました。
『新羅之記録』によれば、康正二年(1456年)から
翌年にかけて、道南地方に居住する和人と、先住のアイヌとの間
に大きな戦争が起きました。
この戦いの発端は、箱館(函館)近くで、
和人の鍛冶屋がアイヌの人を刺殺したことがきっかけとなっています。
しかし、その背景を考えるとアイヌの人たちが居住する平和な島に、
侵入定着した和人が増加し、経済的優位を誇って館を構え、武力を
持ち横暴を強めることに対して、アイヌの反発が蜂起の原因である
と推測されます。
この当時道南地方には12の館(たて)がありましたが、
東部の大族長コシャマインを中心とするアイヌの人たちが団結し、
これらの館を攻撃しました。
各館は次々と落とされ、茂別館(上磯町茂辺地)と花沢館(上ノ国町勝山)
のみが残り、和人たちは次々とこの二つの館に逃れました。
このとき、花沢館にいた武田信広(松前家の祖)がわずかな兵を
率いて進撃し、上磯町七重浜付近でコシャマイン父子を倒しました。
これによりアイヌは敗れ、松前氏の蝦夷地での発展の基礎が築かれました。