2009/04/07 00:17:55
上之国勝山館跡 (上ノ国町)
勝山館ガイダンス施設
14世紀末から蝦夷地道南には渡党と呼ばれる
和人勢力が道南12館と呼ばれる居館に居住し、アイヌと
交易することで経済基盤をなしていました。
しかし長禄元(1457)年に「コシャマインの乱」
と呼ばれるアイヌの武力蜂起が起き、道南12館は
花沢館を除き落城しました。
「コシャマインの乱」を鎮めたのは
上の国守護蛎崎季繁の客将武田信広(松前氏祖)で、
信広は乱後に花沢館主蛎崎季繁の養女で安東政季
の娘を娶り、翌年洲崎館を築き居館としました。
その後、信広は地の利があり眺望の利く勝山館を築き移り住みました。
勝山館の築城年は不明
文明5(1473)年に館神八幡が建立されていることから
この前後と考えられます。
永正11(1514)年に
2代目光広は松前大館に本拠を移すと、勝山館は城代支配となりました。
その後、享禄2(1529)年の「タナケシの乱」
天文5(1536)年の「タナコナの乱」のアイヌの武力蜂起や
天文17(1548)年には城代基広の惣領家への叛乱等で
勝山館周辺は絶え間なく武力衝突が起こっていました。
文禄5(1596)年に松前慶広は豊臣政権下の大名として認知され、
この頃上の国に檜山番所を置き、勝山館を廃したとされます。
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