2009/05/18 00:18:17
弁慶岬
寿都と島牧の境界に突き出た岬で、
昔、アイヌたちはポロ・エドと呼んでいた。
更科源蔵の「アイヌ語地名解」によれば、大きな鼻の
形の岬の意味だそうだが、この岬の先端が裂けたように
なっていてこの岩と岬の間をベルケイ(裂けたところ)
と言ったのを和人がベンケイとなまったという。
松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には、ここをベニツケウと称し
その形が獣の背に似ているところから付けられたとしているが
一方、武蔵坊弁慶が甲冑を曝されたところで弁慶岬ともいう。
想望 ―― 同志を待ちわびる弁慶の心、ここに宿る。
奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在していた。
弁慶の舎弟ともいうべき常陸坊海尊が、義経再挙の兵を募って蝦夷へ向かったという
情報を得た弁慶は、毎日毎日、この岬の先端に立って海尊の到着を待っていたが、
海尊軍団の船影を見ることはできなかった。
そんな弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、この岬のことを、
弁慶が同志を待ちわびていた岬ということから、いつしか弁慶岬と呼ぶようになったと
いわれる伝説が残り、その姿を再現した銅像が建てられています。
銅像の台座に刻まれている「想望」の二文字は、ここからつけられたものです。
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