屯田兵
創設
最初は「士族屯田」だったが、明治23年に条例が改正され「平民屯田」と
なった。
屯田兵には17歳から25歳の身体堅固、兵農の動作に耐えうる者を採用し、移住には、支度料、旅費、荷物運搬料などを支給した。
入植
明治23年9月20日に旭川、永山、神居の3村が設置された。
明治24年に永山村の東・西兵村(現永山)、
明治25年に旭川村の上・下兵村(現東旭川)、
明治26年に永山村字トオマの東・西兵村にそれぞれ400戸、合計1200戸が入植した。
1村は400戸からなっていた。永山が第1、2中隊、旭川が第3、4中隊、トオマが第5、6中隊となり、それらで上川屯田第3大隊を編成した。大隊本部は永山におかれた。現在、本部の痕跡は現在の永山神社の近くの石碑だけになっている
屯田兵の生活
日常の生活用具や農・工具などの官給品、兵屋、1万5千坪(約5ヘクタール)の土地が支給された。
旭川、当麻では、兵屋の周囲から樹木を伐採し、熊笹、雑草を刈って焼き、耕した。
当時一帯は昼間も暗い大森林が広がっていた。大きなものは直径1.5から1.8mもあったという。
また、1.2から1.5mもの高さの熊笹に覆われていた。開墾は虻やブトに悩まされながら伐採や笹刈り、木株の間を耕す毎日だった。しかし、10年~20年で木株など1つも見られない耕地になったのである。作った作物は、麦、粟、稗、豆類、とうもろこし、馬鈴薯や、桑、麻である。
兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年だった。移住後3ヵ月は生兵として、午前訓練、午後開墾を行ったが、その後は訓練・演習は農閑期に行われた。明治29年以降、第3大隊は第7師団所属となり、日露戦争に出征し、東旭川屯田では35名の死者、75名の負傷者、永山屯田では40名の死者をだしている。(当麻屯田のデータ、永山屯田の負傷者のデータは不明)明治37年(1904年)に屯田兵制は廃止になった。