お雇い(御雇)外国人 3
ドイツ人の場合は政府雇用が62.0%であり、特に文部省(31.0%)、工部省(9.5%)、内務省(9.2%)が目立つ。エルブィン・フォン・ベルツをはじめとする医師や、地質学のハインリッヒ・エドムント・ナウマンなどが活躍した。
オランダ人の場合、民間での雇用が48.5%であるが、海運が盛んな国であったことから船員として働くものが多かった。幕府は1855年(安政2年)、長崎海軍伝習所を開設し、オランダからカッテンディーケらを招いたため海軍の黎明期にはオランダ人が指導の中心となったが、幕末に英国からトレーシー顧問団が招聘され(明治維新の混乱で教育は実施されず)、さらに明治新政府に代わってからは1873年にダグラス顧問団による教育が実施され、海軍はイギリスリ式に変わっている。他に土木の河川技術方面でデ・レーケら多くの人材が雇用された(オランダの治水技術が関係者に高く評価された背景があるとされているが、ボードウィン博士兄弟との縁故による斡旋という説もある)。
工部美術学校ではアントニオ・フォンタネージらイタリア人が雇用された。
お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られる。明治4年の時点で大宰府三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円であったのに対し、外国人の最高月棒は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。その他フルベッキやデュ・ブスケが600円で雇用されており、1890年までの平均では、月棒180円とされている。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であった。国際的に極度の円安状況だったこともあるが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによる。
なお、ラフカディオ・ハーンやジョサイア・コンドル、エドウィン・ダンのように日本文化に惹かれて滞在し続け、日本で生涯を終えた人物もいた。