2013/03/06 18:00:46
アイヌ民族の蜂起 30
シャクシャインの戦い(4)
アイヌは和人船の襲撃によって食料は確保したが、武器となる鉄砲や刀は
わずかなものであった。松前藩はアイヌに武器を渡すのを禁じていたのである。
アイヌは戦うための武器が必要だった。
これは松前藩も同じことがいえた。
武器の調達が勝敗を分ける戦でもあった。
襲撃された和人は一人残らず殺されてしまったが、この様子を見ていたアイヌ
の中に松前藩に味方するものがでてきたのである。
有珠虻田のアイヌが、松前に走ったのである。
これが寛文9年(1669年)6月21日のことであった。
報を聞いた松前藩藩主は、11歳の松前矩広(松前10代目)であった。
家老の蛎崎蔵人と蛎崎広隆。
奉行役の蛎崎作左衛門、松前儀左衛門、佐藤権左衛門。
国縫は内浦湾の中間地点で松前から4日路であった。
国縫の地には砂金の採掘小屋があり、内地からの人夫も大勢いたので防禦に
好都合であった。
6月23日、蛎崎作左衛門が80人ほどを引き連れて出発。
その後新田瀬兵衛ら100人。
更に金掘り人夫ら345人を送った。
6月末には、国縫には525人の体制となっていた。
(写真は、アイヌの太鼓とバチ)
シャクシャインの戦い(4)
アイヌは和人船の襲撃によって食料は確保したが、武器となる鉄砲や刀は
わずかなものであった。松前藩はアイヌに武器を渡すのを禁じていたのである。
アイヌは戦うための武器が必要だった。
これは松前藩も同じことがいえた。
武器の調達が勝敗を分ける戦でもあった。
襲撃された和人は一人残らず殺されてしまったが、この様子を見ていたアイヌ
の中に松前藩に味方するものがでてきたのである。
有珠虻田のアイヌが、松前に走ったのである。
これが寛文9年(1669年)6月21日のことであった。
報を聞いた松前藩藩主は、11歳の松前矩広(松前10代目)であった。
家老の蛎崎蔵人と蛎崎広隆。
奉行役の蛎崎作左衛門、松前儀左衛門、佐藤権左衛門。
国縫は内浦湾の中間地点で松前から4日路であった。
国縫の地には砂金の採掘小屋があり、内地からの人夫も大勢いたので防禦に
好都合であった。
6月23日、蛎崎作左衛門が80人ほどを引き連れて出発。
その後新田瀬兵衛ら100人。
更に金掘り人夫ら345人を送った。
6月末には、国縫には525人の体制となっていた。
(写真は、アイヌの太鼓とバチ)
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