新十津川開拓史 2
(新十津川町HPより)
新たな生活地を求めて
600戸・2489人が北海道への移住を決断。
「必ずや第2の郷土を建設する」と固い意図を胸に
秘め旅立つことになった。
10月に3回に分かれて神戸から船に乗り小樽へ。
このころ約1200キロ離れた北海道では、屯田兵制度に続いて
明治19年には植民計画が採用され、全道的な開発が始まろう
としていた。
特に樺太経営とロシア南下への防備対策から、石狩平野開拓は
緊急課題であった。
初めての北海道の冬を・・・
小樽から市来知(現・三笠市)までは汽車で、その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。
病人や老人、子供は囚人に背負われた。
空知太の屯田兵屋は建設中でまだ150戸しかなく、1戸に移民4戸が入った。
そんな中でも、トック原野への入植準備が進められ、新しい村の名前も決められていった。
また、一致団結して開拓を成功させようと「移民誓約書」が起草された。
雪解けを待って石狩川を渡る・・・
遅い北海道の雪解けを待って、石狩川を渡り、植民区画の第1号としトック原野に入植した。
明治23年6月のことであった。
水害被害から10カ月、政府の保護を受けた十津川移民は、現在につながる最初の一歩を
こうして入れることとなった。
大木が生い茂る未開の大地、厳しい自然が移住者の前に立ちふさがる。
困難を極めた開墾・・・
うっそう茂った原始林を切り、根を起こし、燃やしながら、少しずつ開墾を進めた。
十津川人は、元来林業に従事していたので、伐採は得意だったが、笹や草の根が張り詰めた
土地を耕す作業は、並大抵なものではなかった。
蚊やブヨなどの悩まされながら、入植最初の年は、ソバや大根が収穫できたくらいで、
北海道の早い冬が、訪れていた。
新十津川開拓史 1
(新十津川町HPより)
明治22年8月奈良県吉野郡十津川郷で大水害が発生。
奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲った。
その中に「鳥も通わぬ十津川の里」と太平記にかかれた
山村・十津川村があったのである。
山や谷壁がなだれ落ち渓谷をせきとめ、せき止められた
大量の水が堰を切って濁流となり、怒涛のように向かっていく…。
壊滅的な被害に・・・
当時、6カ村からなる十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの
大水害であった。
死者168人、全壊・流出家屋426戸、耕地の埋没流失226ha。
山林の被害も甚大。
生活の基盤を失った者は約3千人にのぼり、その救済策が急務であった。
生活再建のため、移住が話し合われハワイなどの海外や国内の未開懇地が候補にあがった。
写真は「川村たかし著 北へ行く旅人たち」 NHKでドラマとして放映
月形町
月形町は、内務省御用掛権少書記官から
樺戸集治監(明治14年~大正8年)の初代典獄に
任ぜられた月形潔氏の姓を取り、
明治14年7月1日、空知支庁管内第1号の村として誕生しました。
樺戸集治監は、明治維新後の新政府が全国多数の国事犯や
重罪犯を収容するため、全国で3番目、
北海道では最初にシベツブト(現在の月形町)に設置されました。
この集治監の囚人による農地開墾や道路開削などが礎となり、
今日の月形町があります。
■明治15年 樺戸、雨竜、上川の3郡役所を月形村に設置
■明治24年 月形村戸長役場設置
■明治32年 浦臼村(現浦臼町)を分離
■明治39年 二級町村制施行
■昭和28年 町制施行
浦臼町(うらうすちょう)
2,345人(人口、2009年6月30日)
浦臼とはアイヌ語で「ウライ・ウシ・ナイ」
(網を干すところの川)から転訛したものとされる。
あるいは「ウラシ」(笹の多いところ)に由来するという説もある。
坂本龍馬の甥、坂本直寛が入植した。
お墓も浦臼に存在。
浦臼町は、明治20年樺戸集治監の囚人によって、
月形~晩生内間道路を開削したことにより、未墾の地に開墾の鍬が入り、
明治32年には月形村より分村、平成16年には開町105年の年を迎えた。
本町は、北海道の中西部、空知支庁管内のほぼ中央に位置し、
面積101.08キロ平方メートルで、樺戸連山と雄大な石狩川に挟まれ、
いくつもの川や沼が点在するほぼ平坦な地形で、気候も高温適雨で
農業に最適な環境にあるが、冬は雪が多く平年降雪量は13メートル~14メートルに達する。
栗山町
1986年6月21日
衆院選公示日の早朝、栗山町の鳩山神社。
「初めてこの地から出馬します。
頑張りますのでよろしくお願いします」
選挙は衆参同日選となった。
由紀夫は、自分の勝利、そして父・威一郎、弟・邦夫の
必勝も願い深々と頭を下げた。
緊張した表情を浮かべ、車で岩見沢市に向かう由紀夫を、
約30人の鳩山地区の住民らが見送った。
「北海道は全く知らない土地。鳩山農場があった栗山にすがるような気持ちもあるんだろうな」
開拓農家4代目の長谷川本昭は、
そんなことを考えながら走り去る車を見ていた。
岩見沢市のプレハブ事務所前の第一声には、
200人を超える聴衆が集まった。
「私の故郷は北海道です。北海道のために頑張ります」。
演説が終わると同時に一斉に約30羽のハトが飛び立ち聴衆から歓声が上がった。
栗山町(くりやまちょう)は、北海道空知支庁管内南部にある町。
町名の由来はアイヌ語のヤムニウシで、ヤムニ・ウシ(栗の木・多いところ)の意訳といわれている。
旧町名角田(かくた)は、開拓者の出身地「仙台藩角田(かくだ)」よりとられた。
歴史
・1888年(明治21年)5月16日
宮城県角田藩士泉麟太郎氏が「夕張開墾起業組合」を設立
7戸24人が阿野呂川左岸(角田)に入植。
・1890年(明治23年)には「角田村」設置が告示され、
1900年(明治33年)角田村戸長役場が設置。
・開田事業、二股炭礦開坑、奥地開発、栗山市街地区の商工振興などで、
1900年(明治33年)の角田村の戸口が1,200戸、5,000人を突破。
・1902年(明治35年)に二級町村制が施行され、自治体としての新生の第1歩を踏み出した。
二級町村制を5年経験した角田村は、1907年(明治40年)に一級町村に昇格。
・昭和に入り、角田炭礦の発展とともに人口は20,000人を突破し、
1949年(昭和24年)に町制が施行され「栗山町」と改称、1963年(昭和38年)には
役場庁舎を角田から栗山へ移行。
(写真は、鳩山神社)
鳩山首相誕生で、北海道の小さな町の小さな神社が注目を
集めています。
「幸運を呼ぶ神社」として参拝者が急増。
鳩山首相ゆかりの北海道栗山町にある鳩山神社では、鳥居
近くに「祝 鳩山首相誕生」と書かれた高さ約3メートルの立て
看板が設置され、町民らが北海道初の首相誕生に沸いた。
神社は岩見沢市から約25キロの田園地帯にある。
周辺は「鳩山地区」と呼ばれ、50戸120人余が暮らす。
1894(明治27)年、鳩山由紀夫の曽祖父、和夫氏(元衆議院議長)らが
国の払い下げを受けて「栗山共同農場」を開設し、開拓に着手。
1898年(明治31)9月に「紅葉神社」を建立。
老朽化のため1976年改築した際、「鳩山神社」に改称された。
深川の歴史 その8
(深川の小史より)
現在の函館本線は、
できた頃「北海道官設鉄道上川線」と呼ばれていた。
1895年(明治28年)、鉄道を作るための測量が始められ
3年後の1898年(明治31年)開通した。
空知太(そらちぶと(砂川市と滝川市の境界付近))から
旭川までの鉄道の開通と同時に、深川駅と納内駅が開業し
それまで寂しかった深川市街が急ににぎやかになった。
特に、駅前には多くの家が建った。
鉄道が開通するまでは、滝川や旭川に行くには石狩川を渡って
上川道路を通って行かなければならず大変時間がかかった。
また、荷物を運搬するにも多額の費用がかかった。
鉄道が開通してからは、安い料金で、早く移動したり物を運搬できるようになり大変便利になった。
その後、1910年(明治43年)、深川~留萌まで留萌線が、1941年(昭和16年)、深川~名寄までの
深名線が完成し、深川市は交通の中心となった。
深川の歴史 その7
(深川の小史より)
大阪地方で実業家として活躍していた兵庫県の石橋末吉は
明治政府の方針に賛同し農場を開く計画を立てた。
1896年(明治29年)、多度志(たどし)で448ヘクタールの
土地を政府から借り受け、石橋農場を開くこととし、
各地から70戸ほどの農家を集め主にバレイショを植えた。
しかし、水害や冷害の年が多く収穫もわずかであった。
その上、畑を鳥や熊、狐、狸などに荒され食糧不足となりせっかく
開墾した土地を離れて他へ移るものもいた。
石橋末吉は、教育にも熱心で農場の子供たちのために学校をつくった。
この学校は、当時石橋小学校と呼ばれた。
深川から幌加内までの間の道路を作る工事が行われていたが、
1899年(明治32年)鷹泊駅逓が、翌年には、多度志駅逓ができた。
石橋農場のほか、宇摩団体や、幌成の児玉農場、鷹泊の宇野牧場などで、
今の多度志が開かれて行った。