由仁町
由仁の地名由来は
アイヌ語の「ユウンニ」(温泉があるところの意味)
がなまったものといわれています。
由仁町(ゆにちょう)は、空知支庁管内、夕張郡にある町。
・明治19年 由仁開拓。下国皎三、沼山兵七 古川に入地。
・明治24年 熊本団体119人入植。
・明治25年 戸長役場がおかれ由仁村が誕生。
西南に馬追丘陵が広がる由仁町
細長いひょうたん型の由仁町は、南北に夕張川が流れ、
南東部の森林地帯は夕張連峰に属し、西部・南部には、馬追丘陵が広がっている。
1892(明治25)年、戸長役場が置かれて由仁村が誕生した。
1950(昭和25)年に町制が施行され、2002年には開基110年を迎えている。
最近は、2001年にオープンした
「ゆにガーデン」(ハーブを主体としたイングリッシュガーデン)が有名だ。
道道札幌夕張線の由仁入口付近を野球場へ抜ける町道・薫りの丘線にあり、
自然条件を生かして、ハーブを中心に園路に沿ってさまざまなハーブ見本園を配置する。
レストランやフレグランスショップを備えた総合ターミナル施設が建設されているが、
完成までにはまだ時間がかかり、今後は温室や農産物直売所などが建設される予定。
隣接する体験農園では、農家による作付けなどの指導も受けられる。
長沼町
12,119人(人口、2009年6月30日)
町名は、開拓前に町域にあった河跡湖(三日月湖)の
細長い沼に由来する。
アイヌ語で「タンネ・ト」tanne-to[細長い・沼]と呼ばれていた。
明治4年(1872年) 岩手県水沢藩家臣及び附近の移住希望者
合わせて36戸が北海道開拓使の募集移民として出発する。
移住民は3組に分れ3組の組長として
吉川太左ェ門、妻枝勢一子鉄之助は、北上川を下り河口石巻港より
出航、函館、佐原、室蘭、苫小牧、千歳を経て札幌平岸村に入り
開拓に従事する。
明治16年(1887)開基。
第一鍬者、吉川鉄之助及び渡辺伝二は馬追原野の夕張河畔に入り
木村勇次郎は開拓連絡のため一時札幌に留まる。
南幌町
8,985人(人口、2009年6月30日)
地名の由来は、元々はアイヌ語の
「ポロモイ(湾曲して緩やかに流れる所)」から。
当時は漢字で「幌向(ほろむい)」と表記されていたが
現在の岩見沢市に同名の地名があって紛らわしいため
町制施行の際に現在の「南幌」となった。
長く過疎地域に指定されていたが、1990年代に札幌市の
ベッドタウン化が進み、
人口が5,000人台から9,000人台まで急増した。
開拓の歴史。
それは同時に水との闘いの歴史でもあった。
蝦夷地探検の第1人者、松浦武四郎が千歳川・夕張川を調査
したことにより南幌町に初めて光があてられることになります。
明治19年(1886年)に新潟県から10戸の入植があり、
幌向原野に越後村を開きました。
その後入植団体が相次ぎ、明治26年(1893年)に宮城県から
石川邦光が77戸250人余りを引き連れて入植し、石川部落をつくりました。
この年、岩見沢村・幌向(現南幌町)村、栗沢村が戸長役場となり、南幌町開基の年となりました。
氾濫を繰り返す夕張川の治水にあたったのが、
保原元二技師で明治43年から工事が完成するまでの27年間を夕張川治水事業に尽くしました。
秩父別町(ちっぷべつ)
秩父別とは
アイヌ語の「チックシベツ」(通路のある川)から転訛したもの。
空知支庁管内の北部、石狩平野北端・雨竜平野
の北部に位置し町域内は東部の中山地区周辺を
のぞけば平坦。
雨竜川が町域の北から西にかけて流れ、沼田町
などとの境界線になっている。
市街地の周辺部には水田がひろがる。
秩父別町は明治28、29年に計400戸の屯田兵とその家族
による入植によって築かれた町。
日本最大級の洋鐘がある!
秩父別町の開基百年を記念して造られた記念塔の頂点にその鐘がある。
重量2.8tのスイングベルで、この鐘自体が揺れて音を出すものでその様
は圧巻である。
道の駅 百年記念塔の展望室に「しあわせの鐘」をH19/7/28に設置。
この「しあわせの鐘」は、ここに訪れた方々の「願いや思い」をその努力と
強い思いで叶えていく誓いの場として設置。
雨竜町
雨竜とは、現在の雨竜川から付けられた町名とされている。
雨竜川の音の意味するところについては諸説あり、アイヌ語で
urir-o-pet ウリロベッ[鵜・そこに群在する・川]から転訛したという説、
アイヌ伝説上の怪鳥フーリ(フリュー)が流域にいたとされる事に由来
すると言う説などがある。
しかし、元になったアイヌ語の音についても意味についても正確には
分からなくなっているのが現状。
明治22年に開拓の斧がおろされました。
雨竜町の水田耕作の端緒は明治時代の華族組合にあり、その中心の蜂須賀家
が運営したのが蜂須賀農場でした。
史跡公園は、蜂須賀農場の事務所があった場所です。
松並木からして北海道のそれとは異なり、本州の昔を感じさせます。
本町の開拓の拠点となった、蜂須賀(はちすか)農場の事務所跡をいこいの広場として整備。
敷地面積約3ha。
芝生広場・運動広場・記念樹の森が、農場事務所跡の建物を囲むように広がる。
公園のシンボル「アカマツ並木」は、昭和50年6月に北海道開拓記念保護樹木に指定されている。
北竜町
北竜町(ほくりゅうちょう)は、空知支庁管内北部にある町。
町名は母町の雨竜町北部に隣接することによる。
ヒマワリの作付面積は日本一を誇り、ヒマワリを中心とした
町づくりを行っている。
明治26年5月、千葉県の団体入植に源を発し、明治32年7月、
雨竜町から行政区を分離し、戸長役場を置き、雨竜町の北に位置
することから北竜町と称し、その発足をみた。
その後、大正4年2級町村制施行、さらに昭和36年9月に町制が施行
され、平成13年に開基110年を迎え、現在に至っている。
昭和35年の6,463人の人口をピークに過疎化が始まり、
その後30年間で半分以下となったが、最近ではゆるやかな減少
傾向となっているものの、高齢化が進行している状況にある。
沼田町
沼田町(ぬまたちょう)は、空知支庁管内北部にある町。
1894年(明治27年)
富山県出身の沼田喜三郎が郷里から18戸の移住を図る。
ここに沼田町の開拓がはじまる。
町名の由来は町開拓の功労者沼田喜三郎の姓による。
恵比島駅(えびしまえき)は、沼田町にあるJR北海道留萌本線の駅。
駅付近は、NHK朝の連続テレビ小説「すずらん」のロケ地となった。
この駅が使用されたため、撮影用の多数のセットが組まれている。
本来の駅舎は車掌車改造駅舎であるが、板で覆われてしまい倉庫の
ような佇まいになっており、隣に立派な木造駅舎「明日萌」駅が作られている
(旧駅舎の土台をそのまま利用)。
ホーム側の窓際に、振り向きかけた姿の等身大人形が設置されている。
旧黒瀬旅館(「すずらん」ロケの際「中村旅館」として登場。見学可)
周辺は農村地帯。1930年から1971年まで、留萌鉄道が北へ分岐していた。
妹背牛町
妹背牛町(もせうしちょう)は、空知支庁管内北部にある町。
町名の由来はアイヌ語の「モセウシ」で、「モセ・ウシ・イ」
(イラクサ・繁茂している・処)
(カヤ刈りをする・のが習いである・もの<場所>)が転訛し
たものとされている。
当初は「望畝有志」と表記されたが、1898年に現行の表記
「妹背牛」に変更された。
明治26年に開拓の鍬が入れられた妹背牛町は、
平成4年に開基100年を迎えています。
バレーボール
妹背牛商業高校女子バレーボール部が1978年に全国制覇するなど
道内有数の強豪校として知られ、バレーボールを町技として力を入れ
ていたが、2008年度末をもって廃校にする計画が発表された。
高校の存続に向けた活動も行われ町では一時、町立での存続も含め
て検討したが、生徒増が見込めないことと財政難により断念した。
元五輪吉原知子選手(バレーボール全日本代表キャップテン)の出身校。
新十津川開拓史 3
(新十津川町HPより)
文武両道を尊ぶ十津川の人々。
子供たちの教育には熱心であった。
開拓に入るとすぐに学校建設に着手し、明治24年3月に、
徳富川を挟むで南北に1校ずつ小学校を建てた。
その後通学の不便解消に学校数も増えていった。
また、明治28年、母村にならい高等教育の場として
私立文武館を建てた。
この、教育に対する熱意は、今日に至る新十津川の伝統と
なっている。
水田が広がりはじめる・・・
明治30年代に入ると北陸地方などからの移住者により、
水稲の作付けも本格化する。
夜盗虫の大発生、石狩川の氾濫などの災害に見舞われながらも、
着実に農業基盤を固めていった。
明治35年の二級町村制施行、40年の一級町村制施行へと。
きわめて短期間での一級町村昇格は新十津川の急速な発展を示すものであり、
入植者たちの不屈の取り組みの賜物であったといえる。
一大米作地帯へ発展し・・・
大正期に入ると人口は1万5000人を超え、農業生産力や財政規模の面でも空知管内
で屈指の自治体へと成長していく。
水田の開墾に加えて「玉置坊主」という冷害に強い水稲品種を開発、これによって道内
でも第一級の米作地帯となった。
石狩川の洪水に備えた治水事業もこの時期に取り組まれている。
そして現在へ・・・
冷害と凶作、そして戦争という厳しい時代を村民たちはよく助け合い乗り越えていった。
戦争終結と共に息を吹き返した新十津川は、昭和32年1月、ついに念願の町制施行を
実現する。しかし、昭和30年の1万6199人をピークに人口は減少傾向をたどり、
他の多くの農山村と同じく過疎という新たな課題を抱えていく。様々な時代の変化に揺れ
ながらも、新十津川は未来に向かって着実に歩み続ける。