2008/12/15 00:40:49
稚内空港
サハリンからわずか43km、
日本最北端都市稚内の玄関口稚内空港。
昭和31年7月に設置決定され
昭和33年7月に第2種空港(運輸省大臣設置管理)
に指定され、滑走路1,200mにて昭和35年4月
併用開始されました。
昭和60年の就航路線としては
丘珠、千歳、利尻及び礼文との間で4路線の定期便が就航。
その後、航空需要の増加と道北圏一丸となった空港設備運動
により昭和62年6月から滑走路を1,800mまで延長し
小型ジェット機の離発着が可能となり東京直行便の季節運行が就航
しました。
昭和63年10月には2,000mの滑走路が完成し、
航空機の大型化への整備が進められ、平成7年6月より10月まで
関西直行便が季節運航として就航、平成9年度から東京直行便の通年運航
が決まり、関西便は6月~9月迄、東京便は6月~9月迄2便体制として
運航しております。
しかし、平成15年4月1日より利尻・礼文が運航廃止となりました。
成16年6月~8月迄名古屋直行便の季節運航が開始されました。
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2008/12/14 00:18:37
宗谷岬の旧海軍望楼跡
平和な現代に取り残された戦争遺構から
戦争を知らない我々は、何を感じ取ることが出来るでしょうか。
戦争を知らない我々は、何を感じ取ることが出来るでしょうか。
帝政ロシアとの国交が悪化し始めた明治35年に
国境の備えとして旧帝国海軍が建設したものです。
国境の備えとして旧帝国海軍が建設したものです。
当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊が
宗谷海峡、津軽海峡、東シナ海のどこかを通過し
ウラジオストクに集結するかを察知することは、戦略上極めて重大
であったことから、同望楼の海上監視にも、任務の重要性が課せられました。
宗谷海峡、津軽海峡、東シナ海のどこかを通過し
ウラジオストクに集結するかを察知することは、戦略上極めて重大
であったことから、同望楼の海上監視にも、任務の重要性が課せられました。
多くの旅人が目指す、最北端の地、宗谷岬。
その岬の高台に、海と行きかう旅人達を見守る灯台と、この遺構があります。
半円柱の不思議な遺構、海軍望楼跡です。その岬の高台に、海と行きかう旅人達を見守る灯台と、この遺構があります。
2008/12/11 09:01:45
開基百年記念塔(稚内公園)
稚内公園の丘陵上の海抜170メートルに開基百年記念塔
を建設しました。
鉄筋造2階建の“北方記念館”を基部に、地上80メートルの
高さをもつ鉄筋コンクリート中空型の“記念塔”からなっています。
北方記念館は1階と2階にわたって
郷土および樺太関係の資料が揃っています。
開基百年記念塔は地上70メートルの高さにガラス張りの
展望台があり、ここから南は広大なサロベツ原野、宗谷海峡、
西は利尻・礼文の展望、そして北はサハリンの島影を捉えることができます。
まさしく、360度の大パノラマが、海抜240メートルに展開し、
稚内ならではの景観を楽しむことができます。
2008/12/09 00:56:24
九人の乙女の碑(稚内公園)
1945年8月20日、樺太真岡郡真岡町
で起きた「真岡郵便電信事件」で自殺(自決)した9人の
電話交換手の慰霊碑。
で起きた「真岡郵便電信事件」で自殺(自決)した9人の
電話交換手の慰霊碑。
稚内市内の稚内公園にあり、樺太が見える丘に碑が
建っております。
建っております。
碑文
戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真
岡上陸を開始しようとした。
戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真
岡上陸を開始しようとした。
その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、
死を以って己の職場を守った。
死を以って己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと
死の交換台に向かい
死の交換台に向かい
『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』
の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む
2008/12/08 00:50:28
南極観測樺太犬記念碑(稚内公園)
極地での輸送手段に犬ゾリが選ばれ、北海道各地から
樺太犬が集められ稚内公園で約8ヶ月間厳しい訓練が
行われました。
昭和31年11月に東京を出発した観測船「宗谷」は、
翌年1月ついに南極大陸を発見、第1次越冬隊は前人未踏
のオングル島へ到達し、そこを昭和基地と命名しました。
樺太犬が集められ稚内公園で約8ヶ月間厳しい訓練が
行われました。
昭和31年11月に東京を出発した観測船「宗谷」は、
翌年1月ついに南極大陸を発見、第1次越冬隊は前人未踏
のオングル島へ到達し、そこを昭和基地と命名しました。
マイナス30度を超える寒さとブリザードの吹き荒れる中、
犬ゾリは1年間の任務でおよそ1,600kmを走破したといいます。
昭和33年2月交替要員を乗せた「宗谷」は、再び南極大陸へと
近づきましたが、厚く大きな氷に阻まれ身動きがとれなくなり、
上陸を断念し第1次越冬隊員だけを収容して日本へ戻ることになりました。
このとき、1年間犬とともに過ごしてきた隊員たちは必ず交替要員が来るもの
と信じ、鎖につないだまま15頭の犬達を昭和基地に残すことになったのです。
そして1年後の昭和34年、第3次越冬隊が再び南極を訪れたとき、
ヘリコプターから白い大陸を元気に駆回る2頭の犬を発見。
それは、タロとジロの姿でした。
駆けめぐり感動を与えました。
この事実は昭和58年に「南極物語」として映画化され、空前のヒットとなりました。