サロマ湖 ワッカ原生花園
北海道最大の湖(日本第3位)サロマ湖と、
冬は流氷押し寄せるオホーツク海に面した北見市常呂町にあります。
常呂町はホタテ養殖発祥地として知られ、
水揚げ量は日本一と日本有数のホタテの産地です。
ワッカ原生花園がある栄浦地区は、遺跡の館や東京大学の実習施設などがあり、
オホーツク文化時代の土器などが数多く出土されます。
日本初の屋内専用カーリングホールもあり、ホタテと遺跡とカーリングの町として紹介されます。
ワッカ原生花園は、常呂町栄浦(サロマ湖畔栄浦、サロマ湖畔などと表現される場合があります)にあります。
ワッカとはアイヌの人達の言葉で「水」を指します。
ただし、「水」だけではなく飲める水や湧き水を指すのだそうです。
サロマ湖とオホーツク海を隔てる細長い砂州には「ワッカ花の聖水」と呼ばれる湧き水があります。
ワッカ原生花園は、北海道遺産に指定されるほど自然がすぐそばにあります。
幅は200~700m、全長約20kmに及ぶ砂州は日本最大の海岸草原です。
森・草原・砂丘・湿地が混在し多様な生態系を形成し、
帰化植物も含め300種以上の草花が咲き、野鳥が生息しています。
1991年にはワッカの自然環境を保護するため、一般車両の乗り入れを規制しています。
4,330人(人口、2010年6月30日)
興部町は、オホーツク総合振興局管内の北部に位置する町。
「おこっぺ牛乳」が有名。
町名の由来は、アイヌ語の「オウコッペ」(川尻の合流しているところ)から。
当時は、興部川、藻興部川が合流しオホーツク海に注いでいたところから、このように呼んでいたとされています。
基幹産業は酪農、林業、漁業。
ホタテ、サケ、マス、毛蟹などが獲れる。
かつては名寄本線、興浜南線が通っていたが、現在は廃止されている。
興部町は、宝永年間に松前藩の漁場として支配され明治22年に初めて、沙留に和人が定住、同31年に石川、高知、富山など各県より入地者が来住して本格的に開発が進められました。
明治42年、雄武より字興部を、紋別より字沙留、ルロチの2ケ村を分割併合して、興部村外2ケ村長役場が設置されました。
大正4年、北海道2級町村制が施行され興部村となり、その後、大正10年、国鉄名寄線が全通し、農業、林業、漁業の飛躍的発展をみるに至りました。
雄武町
4,883人(人口、2010年6月30日)
雄武町(おうむちょう)は、オホーツク総合振興局管内の北部に位置する町。
町名の由来は、アイヌ語の「オムイ」(河口が塞がるの意)から。
雄武川の河口は、嵐の時には、川から流れ出る水よりも、海から打ち寄せる波のほうが強く、河口が塞がってしまうため、このような名称がついたと言われています。
雄武周辺への和人の入植は、江戸時代末期に開かれた宗谷場所が拡大し、雄武周辺にも番屋が建てられたところから始まります。
明治5年(1872年)には紋別郡10ヶ村のひとつとして雄武・沢木・幌内の3村が誕生します。
以後、新漁場として開発された雄武地区に人口が急増し、明治33年(1900年)には紋別村より分村して雄武外3ヶ村戸村役場が設置されます。
大正4年(1915年)に沢木村・幌内村を合併して2級町村制が敷かれた後、昭和23年(1948年)に現在の町制が施行され、今に至ります。
明治43年、湧別村から分村し始まった
上湧別町の歴史が4日閉じられました。
5日からは新「湧別町」として新しい歴史の扉が開かれます。
2009年10月5日
網走管内上湧別町と湧別町は合併して新「湧別町」として再スタート。
道内で成立した唯一の自治体合併。
これで道内の市町村数は179となる。
新町は5日、本庁舎となる上湧別町役場で開庁式。
人口は9月末現在、10,272人。
上湧別町長の原田雅美が町長選に立候補。
町議の定数は合併後4人減の16人。
道内では旧合併特例法の期限が迫った06年2月から3月末にかけ、駆け込みが
相次ぎ計12件の合併が成立した。
しかし、特例債など手厚い補助があった旧法に比べ、都道府県主導に重点が
移った新法下では合併協議会が相次いで破談した。
斜里岳 道立自然公園
標高1,545m斜里岳は日本百名山に数えられる、
知床火山群と阿寒火山群のほぼ中央に属する死火山。
知床半島の付け根部分に位置し、円錐形の山容で、
オホーツク海側から眺めると、山裾が長く富士山型の
独立峰に見えます。
斜里川の水源を持つため斜里岳と呼ばれ、
「シャリ」は、アイヌ語の「サル」(葦のある湿原)」が訛ったもの。
斜里岳は、古くはアイヌ語でオンネヌプリ(オンネ=親、ヌプリ=岳、山の意)
といった。
山頂は斜里岳、南斜里岳、西峰からなりオホーツク富士、斜里富士とも呼ばれる。
阿寒の山々と知床連山の中間にそびえる斜里岳は、日本百名山のひとつでもあり、登山も盛んな山。
登山ルートは3つありますが、最もポピュラーなのが清里町側からの「清岳荘(せいがくそう)」を通るルート。
斜里岳 道立自然公園
この公園は、網走支庁管内斜里町・清里町と根室支庁管内標津町の
町界に位置する斜里岳の山頂から中腹にかけての一体を区域とする公園で、
面積は2,979haあり全域が国有林となっています。
また、指定されたのは1980年(昭和55年)11月13日ですが、
道内に12箇所ある道立自然公園の中では、最も新しい公園となっています。
網走刑務所
1890年(明治23年)
釧路集治監網走分監、網走囚徒外役所として開設
網走刑務所(あばしりけいむしょ)は、札幌矯正管区に属する刑務所。
網走市に所在、再犯者の短期処遇を目的とする。
定員759人(2009年現在)。国内最北端の刑務所である。
かつては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われ、
明治の脱獄王「西川寅吉」(模範囚として過ごし釈放)や
昭和の脱獄王「白鳥由栄」
(脱獄に成功 吉村昭の『破獄』で取り上げられた天才脱獄囚)
らが収監された。
また、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、映画『網走番外地』
シリーズの舞台ともなっている。
なお、映画「網走番外地」シリーズでは、所在地は網走市番外地となっているが、
刑務所の所在地は、正しくは網走市三眺地区であり、
住居表示では、網走市字三眺官有無番地となっている。
設立当初は、刑務所というより凶悪犯と政治犯が同居する強制収容所といった
趣が強く、収容者は情け容赦ない労働を強いられた。
特に、160km以上に及ぶ中央道路
(現在の国道333号~道道103号~国道39号~道道104号の一部)を8ヶ月で
突貫工事で完成させた際には、分かっているだけで200名前後の収容者が死亡。
1000名以上の囚人が道路建設に関わりながら、その後行方不明になっている。
道路沿いの畑から、手鎖、足鎖を付けた状態で白骨化された遺体が出土したり、
荼毘に付されることもなく道ばたに埋められ土饅頭として残る墓など、厳しい
労働条件を示す痕跡が現在も残る。
当館は、明治以来使われ続けてきた網走刑務所の古い建物を文化財として
保存公開することを目的に、昭和55年財団法人網走監獄保存財団を設立、
昭和58年7月に開館しました。
網走刑務所旧建造物を保存公開する野外博物館です。
網走国定公園の景勝天都山網走湖側に位置し、敷地面積は約東京ドーム3.5個分
に相当します。
入館料 大人個人(1,050円) 高校・大学生(730円) 小・中学生(520円)
羅臼岳(らうすだけ)
羅臼岳(らうすだけ)は、
知床半島にあり世界自然遺産知床連峰の最高峰。
古くはアイヌ語でチャチャヌプリ、また良牛岳と記されたこともある。
その美しい姿から知床富士とも呼ばれ、日本百名山の一つでもあります。
羅臼岳はオホーツク海側のウトロの街からも、太平洋側の羅臼の側から
もハッキリそれとわかる山で、知床横断道路の通っている山の南側は
知西別岳(ちにしべつだけ)との間がかなり開いているのとは対照的に、
北側は羅臼岳、三ツ峰、サシルイ岳、オッカバケ岳、南岳、知円別岳、硫黄山
と知床連山の峰々が続いています。
知床横断道路の途中にある知床峠からは、この美しい羅臼岳を間近に望むことができます。