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青函連絡船
 
青函連絡船は1908年(明治41年)、
青森と函館を結ぶ鉄道連絡船として生まれ、seikantop.jpg
航空機のない時代には北海道へ渡るメインルートとして
隆盛を極めました。
 
青森発着の特別急行列車
   (はつかり / みちのく / 白鳥など)
  夜行列車  (ゆうづる/ 急行八甲田)
 
函館発着の優等列車
  (特急北斗 / 北海 / おおとり 急行宗谷 ニセコ)
夜行普通列車は、青函連絡船との接続を重視したダイヤを組み、
函館では深夜・早朝に発着する例も見られました。
 
1970年代前半には1日30往復もの運航がありましたが、航空移転や民間フェリー航路
の整備に伴い、客貨ともに輸送量が急激に減少していきました
(最盛期は昭和48年の約490万人)。

列車が青森駅や函館駅に到着した時には、連絡船乗り場へ向かう乗客でプラットホームや
跨線橋(こせんきょう)がごった返えし、荷物を抱えた乗客が乗り場へ競って駆け出すことから
「桟橋マラソン」と呼ばれる光景を見せていました。
(歌にもある「津軽海峡冬景色」はこの様をよくあらわしています)
 
そんな中にも苦難の歴史があります。
ひとつは太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月14日-アメリカ海軍艦載機の
空襲により全連絡船12隻が被害を受け
(8隻沈没、2隻大破炎上、2隻航行不能、352人死亡)、壊滅状態。
 
もうひとつは洞爺丸沈没(1954年、昭和29年)。
台風15号(洞爺丸台風)に伴う暴風雨が原因で、航行中の洞爺丸が函館郊外の
七重浜に座礁し転覆。
他に僚船4隻(第十一青函丸・北見丸・十勝丸・日高丸)が沈没。
あわせて1430人の犠牲者を出した。
この事故を契機に青函トンネル計画が具体化されることになりました。
そして1988年(昭和63年)青函連絡船は青函トンネルの開業とともに終航を迎えます。
 
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函館山
 
 牛が寝そべっている姿に似ていることから
別名臥牛山(がぎゅうざん)とも呼ばれる函館山。
hakodate2.jpg
山頂まではロープウェイと一般道路のほか、登山散策コースもある。

標高334m、晴れた日の昼間には函館市内はもちろん、津軽海峡や
青森県の下北半島までも見渡せる絶好の展望スポット。

特に夜間の山頂からの函館の夜景は香港、ナポリと並ぶ世界三大夜景
の一つとされ、春から秋にかけての漁期はイカ釣り漁船の灯す漁火を見
ることもできる。
 
函館山は、約2500万年前から始まった火山活動により、海中から隆起し
た孤島であったが、約3000年前に、海水により港側と外海側から次第に
砂が堆積されて砂州ができ、函館山は渡島半島と陸続きになった。
函館の中心街はこの砂州の上にある。
 
函館山は1898年から要塞建設が始まり1905年までに、函館山全体に砲台や、
発電所、観測所など17の施設が建設された。
また、函館山が要塞地帯になったことで、山全体が軍事機密となり地形図から函館山が消えた。
戦後、津軽要塞はアメリカ軍によって解体され、一般市民にも解放された。

函館ハリストス正教会
 
函館ハリストス正教会は日本正教会でも伝道の
最初期からの歴史を持つ最古の教会の一つ。c490d813.jpeg
1859年にロシア領事が領事館内に聖堂を建てたのが源流。
1861年に来日した亜使徒聖ニコライによって3人が洗礼を受け、
日本正教会の原型となり日本における正教会伝道始まりの場所。
1907年に函館市内の火事によって聖堂は全焼の憂き目を見るが
1916年に再建された。
 
2006年現在、日本ハリストス正教会の信者は1万人ほど。
ほとんどの信者は日本人であるが、日本に在住する外国人信徒も
都市部などでは見受けられる。
教会の分布を見ると、日本正教会の草創期に仙台の人士が活躍した
事もあって、東廻り航路の拠点港である石巻の流通関連地域を中心とした
宮城県北部から岩手県南部に多くの教会がある。
全体的には太平洋側に多くの教会が分布しているが、北は北海道、南は鹿児島
に至るまで展開している。
現在、聖堂ないし会堂を持たない教会も含めて、日本全国に60あまりの教会がある。
 


高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)

 

高田屋嘉兵衛は
司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」の主人公です。
05c7d317.jpeg

護国神社へと通じる高田屋通り、函館山を背に高く
そびえ立つ3.6メートルの銅像。

帯刀し、右手には松前奉行からの論書を、左手には正装
に着替えた際に脱いだ衣装を持つ高田屋嘉兵衛像です。

 

1769年、淡路島に百姓の子供として生まれる。
その後、28歳のときに蝦夷箱館に来航。

箱館を本拠地として海運業を始めた。
その後、当時の幕府にその才能を認められ、
千島方面、現在の北方領土の航路を拓く命を受け、
択捉島、根室に港を開き、巨万の富を得る。

しかし、その富を自分のために使うのではなく、道路の改修、
漁業の開発、函館山への植林など、函館の発展のために使っていった。
また、1806年の函館大火の際には、被害にあった市民に物資を救援し、
今後のためにと井戸とポンプを寄贈した。
このように、高田屋嘉兵衛は北方の航路を拓くだけではなく、
函館の経済に大きく貢献した。

そして1811年、南下政策を進めていたロシア軍のゴローニン海軍中将が、
国後島を測量中に幕府によって捕らえられ、
日本に抑留されたという「ゴローニン事件」が起きた。
これをうけてロシア軍は、翌年、リコルド少佐により国後沖で高田屋嘉兵衛等
を拿捕し、日本とロシアの関係は最悪のものとなった。
しかし、獄中からの嘉兵衛の必死な説得により、ついに翌年、嘉兵衛との交換
でゴローニンが開放されることとなった。
もし嘉兵衛の説得が無かったならば、日露戦争が勃発していただろうとも言われている。

高田屋嘉兵衛



函館の歴史 5

(五稜郭)10f2508a.jpeg
わが国最初の洋式城郭。
五つの稜が星型に突き出ているため五稜郭の名があります。
幕府が北方防備のために弁天砲台(函館ドック付近)とともに
安政4年(1857年)から7年がかりで築造しました。
ヨーロッパの城を参考に蘭学者、武田斐三郎が設計。
鉄砲など近代兵器に対処できるようプランを練りました。
各稜に砲をおけば死角も少なく、砲火をあびせられるというわけです。

日本最後の内戦「箱館戦争」の舞台となったところで、
明治元年(1868年)、大政奉還に不満をもった旧幕臣・榎本武揚、大鳥圭介らが
ここを占拠し、翌年5月に降伏、開城しました。

公園内の市立博物館分館には武器、衣服など関係資料を多数展示。
現在は、桜の名所として知られ、幅30mの外堀には鯉が悠々と泳ぎ、
貸しボートも人気があります。
公園の入口には五稜郭タワーがあり、地上約60mの展望台から、
史跡五稜郭を俯瞰眺望することが出来ます。
なお、1階展示ホールには、五稜星型文化が、どういう目的で生まれ、
世界中にどのように伝播したかを紹介する資料が展示されています。


函館の歴史 4

(日露漁業条約)c0f6d31f.jpeg
幕末の頃から行われていた北方出漁は、日露戦争のために中止となって
いましたが、明治40年(1907年)に日露漁業条約が結ばれて、北洋漁業
は発展し始めました。

 大正10年(1921年)に創設された日魯漁業(株)は、世界最大の
漁業会社といわれ、「嫁にやるなら日魯の社員」という言葉がうまれたほど。
タラ延縄(はえなわ)や母船式カニ漁で北洋漁業は黄金時代を迎え、貿易
は満州や欧州各国、アジアまでひろがりました。

 北洋の基地という栄光の座が奪われたのは、太平洋戦争の敗戦による漁場締め出し。
昭和27年には戦前に比べてスケールは小さくなったものの再開されました。


函館の歴史 3 

(箱館戦争)099fb52b.jpeg
明治元年(1868年)、10月20日朝、
旧幕臣・榎本武揚らは軍艦「開陽丸」以下7隻の艦隊を率い、
鷲の木の浜に入りました。
旧幕府軍は総勢約3,000名、加えてフランス軍人が10名、
6日後には五稜郭を無血占拠、旧幕臣のための蝦夷地開拓を
アピールしました。

翌年の5月11日、政府軍は箱館を海と陸から総攻撃し、
18日にはついに旧幕府軍が降伏。
開陽丸を蝦夷地に着いてまもなく暗礁に乗り上げて失ったことが
敗戦を早めたともいわれます。(暗礁の場所は江差)
 
元新撰組副長・土方歳三もこの戦いで生涯を終えました。
ここに封建時代は終焉を迎え、蝦夷は北海道に、箱館も函館と
改められ、街は平静を取り戻したのです。



函館の歴史 2 
(ペリー提督)

 嘉永7年(11月から安政元年)(1854年)、
米国東インド艦隊司令長官f98446ee.jpegペリー提督との間で、
ついに日米和親条約が締結され、わが国は箱館と下田の開港を約束
ペリー提督はその足で艦隊をひきつれて箱館の視察
に訪れました。

 和親条約が締結された翌年から、外国船が盛んに箱館港に入港し始め、
その後の米・蘭・露・英・仏との通商条約を経て、安政6年(1859年)には
横浜、長崎とともに、日本初の国際貿易港として開港、世界の「ハコダテ」
は大きく発展しました。
 
 
この為、欧米文化の影響を直接受け、町並みや建物に今もその面影をとどめ、
特に函館西部地区の元町周辺は開港当時から栄えた所で、各国の様式を備
えた教会・旧領事館・石畳の坂道とこれらがかもし出す風情はエキゾチックな
ムードを漂わせることとなります。
また、外国人との交流も深まり、北海道初、日本初のもの
(ストーブ、西洋料理店、気候測量所など)がたくさん誕生、
”北の文明開化”の地、箱館はトレンディの発信基地でもありました。


函館の歴史 1 
(初めて入港した外国船)d5e15c33.gif
 
 箱館港に初めて入港した外国船は、
寛政5年(1793年)、交易を求めてやってきた
ロシアのエカテリーナ号でした。

その後もイギリス船などの外国船出没騒ぎが続き、
江戸幕府は北方警備のために享和2年(1802年)、箱館奉行を置きました。
ここに箱館は蝦夷地の中心として栄え始めます。

諸外国がアジアに手を広げだした時期でもあり、
ロシアは自国軍艦や商船の寄港地として、アメリカは北太平洋捕鯨船の
寄港地および対中国貿易品をストックする場として、日本の開港を望んだのです。


旧函館区公会堂
 
国の重要文化財にも指定されている旧函館区公会堂ですが建築koukaidou1.jpg
のきっかけになったのは、明治40年(1907)の大火です。
町会所が焼失したため「公会堂建設協議会」が結成されましたが、
大火後のため思うように寄付金が集まらず、見かねた時の富豪、
初代相馬哲平がポンと5万円を寄附し、これを元に建設されました。
 
函館港を見下ろす高台に建ち、明治43年(1910年)に建てられた
左右対称のコロニアルスタイルとブルーグレーとイエローの色が
特徴的な美しい建物です。
 
今なお基坂の下から見上げる姿は元町のランドマークと呼ばれています。
明治44年には大正天皇が皇太子殿下として行啓の際宿舎として使用されており、
館内はその貴賓室130坪の大広間など当時の華やかな雰囲気をそのままに残しています。
 
 


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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