2009/06/27 00:22:56
旭橋
札幌の豊平橋、釧路の幣舞橋と共に北海道三大名橋といわれたが
現在では旭橋のみが架橋当時の姿を残している。
現在では旭橋のみが架橋当時の姿を残している。
初代旭橋は1904年(明治37年)に架けられた鋼橋
(全長約153m、幅約11m)であったが、大正末になると木製部分を
中心に老朽化が進み、都市拡大に伴う交通量増加に対応できなくなりつつあった。
(全長約153m、幅約11m)であったが、大正末になると木製部分を
中心に老朽化が進み、都市拡大に伴う交通量増加に対応できなくなりつつあった。
1927年(昭和2年)、
橋梁形式にブレースト・リブ・バランスト・タイドアーチ橋を採用することとなった。
日本でこの形式の橋は岩手県一関市の北上大橋、荒川区/墨田区の白髪橋、
岐阜市の忠節橋、そして旭橋の4例しかない。
最新技術で設計された目的は当時設置されていた旧陸軍第七師団司令部の存在に起因し、
戦時に敵に橋脚が攻撃されても崩落に耐え、また戦車などの重量物の通行を可能とするためであった。
また当時の旭橋正面には軍人勅諭網領を書いた旭日亜章が掲げられ、戦時に敵に橋脚が攻撃されても崩落に耐え、また戦車などの重量物の通行を可能とするためであった。
それに対し通行する者は立ち止まり辞儀や敬礼をし、市電車内では車掌が通過時に
号令をしたという。戦地に赴く軍人はその多くが、第7師団から旭橋を渡橋して出征していった。
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2009/06/26 00:59:29
旭川市
354,559人(人口、2009年3月31日)
14世紀前後にアイヌ文化が形成されたが
上川もその文化の担い手であるアイヌの人たちの世界であった。
18世紀になって、北海道の重要性に注目した当時の徳川幕府は
この地に多くの探検家を送り込んだ。
上川もその文化の担い手であるアイヌの人たちの世界であった。
18世紀になって、北海道の重要性に注目した当時の徳川幕府は
この地に多くの探検家を送り込んだ。
明治2年に北海道を統括する開拓使が設けられ、蝦夷地を北海道
と改称して、11国86郡の行政区画が設定され、上川盆地一体は
石狩国上川郡となった。
当時の上川は強風もなく、高燥平坦な肥沃な大地があり、
幾数十年も移出できる樹木や試作した穀菜類の成育がすぐれているという
報告に強い印象を受けた司法大輔、岩村通俊卿は、
明治18年に永山武四郎(屯田兵本部長)とともに近文山に上って国見を行い、
この地に「北京を置くの議」を、明治15年に続き再び政府に提出した。
明治22年には岩村長官の後任となった第二代北海道長官永山武四郎の建議
に対して、当時の宮内大臣から総理大臣に
「上川郡のうちに他日一都府を立て、離宮を設けるよう仰せいだされ候」との宣達
が出されたが、計画は日の目を見ることなく、歴史の中に消え、今も幻の上川離宮
を物語る碑が建っている。
地名の由来については、忠別川のアイヌ語で「チュプ・ペッ」を語源にしている説が
よく知られている。
「チュプ」は「日」の、「ペッ」は川の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳
して名付けたと言われているが、諸説があって定かではない。
明治23年9月20日に上川郡に初めて旭川村、永山村、神居村の3村が置かれ、
明治24年から開発の尖兵として屯田兵が入植し、旭川は上川の中心として開拓が進められた。
明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、
札幌から第7師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命
を担ってきた。
さらに先人たちの偉大な努力により大正11年8月市制施行、昭和30年から近隣町村
との合併が進み、昭和45年に人口30万人、昭和58年には人口36万人を超え、
北海道では札幌に次ぐ第2の都市となった。
よく知られている。
「チュプ」は「日」の、「ペッ」は川の意味で、「日」を「旭」に置き換えて「旭川」と意訳
して名付けたと言われているが、諸説があって定かではない。
明治23年9月20日に上川郡に初めて旭川村、永山村、神居村の3村が置かれ、
明治24年から開発の尖兵として屯田兵が入植し、旭川は上川の中心として開拓が進められた。
明治31年には鉄道が開通、明治33年には旭川村から旭川町に改称され、
札幌から第7師団が移駐するなど、産業・経済の基盤が成立し、道北の要としての使命
を担ってきた。
さらに先人たちの偉大な努力により大正11年8月市制施行、昭和30年から近隣町村
との合併が進み、昭和45年に人口30万人、昭和58年には人口36万人を超え、
北海道では札幌に次ぐ第2の都市となった。
2009/06/24 00:53:28
上川支庁
北海道のほぼ中央に位置し
地形は南北に細長く、東西96.7km、
南北224.4km、面積は9,852km²で
全道の11.8%を占めています。
これは、青森県(9,232km²)、岐阜県(10,165km²)、
鹿児島県(9,128km²)に匹敵します。
中央を旭岳( 2,290m)を主峰とする大雪山系、
北を天塩山系と北見山系、
更に南を夕張山系と日高山系が走行し、
それぞれ広大な上川、名寄、
富良野の各盆地を形成しています。
また、中央部は大雪連峰に源を発する石狩川が貫通し、
北部は天塩岳に源を発する天塩川が横断しており、
南部は石狩川の支流である空知川が流れ、
本道農業の中心地として広大な沃野を形成しています。
四方が山に囲まれた内陸地帯の盆地であるため、
冬季と夏季の寒暖の差が極めて大きく、冬季には最低気温零下41.0℃(明治35年1月25日)、
夏季には最高気温36.0℃(平成元年8月7日)を記録するなど内陸性気候となっています。
なお、「-41.0℃」は気象観署として全国1位の記録です。
人口は、53万5,456人(平成17年国勢調査速報値~北海道集計)で、
全道の9.5%を占め、14支庁の中では石狩支庁に次いで第2位です。
減少の背景としては、産業面で離農者の増加や、就業の場の不足、
都市の企業と地元企業との賃金格差などがあります。特に高校卒業後、
進学や就職等により地元を離れる傾向が多く見られ、若者流出による
地域活力の低下が大きな課題となっています。