平和通買物公園
平和通買物公園(へいわどおりかいものこうえん)は,旭川駅前から8条通に
至るまでの約1kmに渡る歩行者天国である。(道路幅員:20m)
1972年6月1日に日本初の恒久的歩行者天国として開設された。
五十嵐広三市長(後の衆議院議員、建設大臣・内閣官房長官)が1963年に
37歳の若さで旭川市長に当選すると、平和通の歩行者天国(買物公園)化に
ついて具体的に検討を進め、1965年に平和通買物公園構想の立案計画を
市政方針で発表した。
ヨーロッパのモールのように、ゆったりと買物が楽しめる緑の空間を造りだし、
モータリセーションに対抗して「人間性回復」をアピールすることにより、
平和通商店街の繁栄・魅力づくり、旭川のイメージアップに役立たせようとす
るものだった。
旭川駅前の歴史
1898年、旭川に待望の鉄道が開通した。
上川線が旭川まで延伸開業され、北海道の海の玄関であった小樽港と鉄路で結ばれたのである。
また、1894年に勃発した日清戦争後の国策(軍備拡張)により、陸軍第七師団が鷹栖村字近文
(現:旭川市近文)に拡張・移転されることになった。
各連隊の移駐は1900年から順次開始された。
そのような経過から、旭川駅前から旭橋を経由して陸軍第七師団まで通じる道路は、自然発生的に「師団通」と呼ばれるようになった。神居古潭 (かむいこたん)
アイヌ語で「神の里」を意味し、
石狩川の急流沿いに奇岩怪石が約10km続く。
渓谷の濃緑色及び黒色質の岩石は神居古潭石と呼ばれ、
また吊橋付近には激流がつくる「神居古潭おう穴群」
<昭和41年(1966年)に市の天然記念物指定>がある。
英雄神と魔神の戦いを描いた「サマイクル伝説」やフキの下の
小人「コロポックル伝説」などが語り継がれている。
カムイコタンの伝承
石狩川が急峻な流れを持つことから、以下のような伝承(ユーカラ)が
生まれたといわれ、現代に伝えられている。
かつてこの地にはニッネカムイ(またはニチエネカムイ)が住んでいた。
ニッネ(悪い)+カムイで、悪神・魔神と訳される。
ニッネカムイはこの地に大きな岩を投げ込み、往来するアイヌを溺れさせようとした。
ヌプリカムイ(山の神)が見とがめて岩をどかすが、ニッネカムイは怒ってヌプリカムイ
と争った。英雄サマイクルがヌプリカムイに加勢したため、ニッネカムイは逃げようとし
たところ川岸の泥に足を深く沈めてしまい、動きが止まったところでサマイクルに切り殺された。
川岸に残る大きな甌穴は、そのときにニッネカムイが足を取られた跡であるという。
井上 靖
井上 靖(いのうえ やすし、明治40年~平成3年)は、小説家、詩人。
旭川町(現・旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。
井上家は静岡県伊豆湯ヶ島で代々続く医家。
小説は知識人の孤独な魂を叙情豊かに描いた、現代を舞台とする
もの(『猟銃』『闘牛』『氷壁』他)、自伝的色彩の強いもの(後述。
『あすなろ物語』『しろばんば』他)、日本及び中国の歴史に取材した
もの(『敦煌』『風林火山』『おろしや国酔夢譚』他)に分別される。
井上靖記念館
旭川市春光5条7丁目 Tel. 0166-51-1188
井上靖記念館は井上靖が旭川で生まれたことを記念して,1993(平成5)年7月24日に開館しました。
この記念館には,旭川への思いをつづった自筆ノートをはじめ,直筆原稿,文学作品,親交のあった芸術家の作品など,井上靖の83年の生涯を紹介する貴重な資料が展示されています。
また,常設展示のほかに定期的に企画展を開催したり,文学講演会や文学講座,ロビーコンサートなどの行事も行っています。
記念館内ラウンジには,井上靖や日本の近代文学の書籍,北海道の郷土資料本,各地文学館の出版物及び関連図書などが置かれており,読書をしながらゆっくり とくつろいでいただくことができます。
写真手前が井上靖記念館。すぐ横に旭川市彫刻美術館があります。
屯田兵
創設
最初は「士族屯田」だったが、明治23年に条例が改正され「平民屯田」と
なった。
屯田兵には17歳から25歳の身体堅固、兵農の動作に耐えうる者を採用し、移住には、支度料、旅費、荷物運搬料などを支給した。
入植
明治23年9月20日に旭川、永山、神居の3村が設置された。
明治24年に永山村の東・西兵村(現永山)、
明治25年に旭川村の上・下兵村(現東旭川)、
明治26年に永山村字トオマの東・西兵村にそれぞれ400戸、合計1200戸が入植した。
1村は400戸からなっていた。永山が第1、2中隊、旭川が第3、4中隊、トオマが第5、6中隊となり、それらで上川屯田第3大隊を編成した。大隊本部は永山におかれた。現在、本部の痕跡は現在の永山神社の近くの石碑だけになっている
屯田兵の生活
日常の生活用具や農・工具などの官給品、兵屋、1万5千坪(約5ヘクタール)の土地が支給された。
旭川、当麻では、兵屋の周囲から樹木を伐採し、熊笹、雑草を刈って焼き、耕した。
当時一帯は昼間も暗い大森林が広がっていた。大きなものは直径1.5から1.8mもあったという。
また、1.2から1.5mもの高さの熊笹に覆われていた。開墾は虻やブトに悩まされながら伐採や笹刈り、木株の間を耕す毎日だった。しかし、10年~20年で木株など1つも見られない耕地になったのである。作った作物は、麦、粟、稗、豆類、とうもろこし、馬鈴薯や、桑、麻である。
兵役は、現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年だった。移住後3ヵ月は生兵として、午前訓練、午後開墾を行ったが、その後は訓練・演習は農閑期に行われた。明治29年以降、第3大隊は第7師団所属となり、日露戦争に出征し、東旭川屯田では35名の死者、75名の負傷者、永山屯田では40名の死者をだしている。(当麻屯田のデータ、永山屯田の負傷者のデータは不明)明治37年(1904年)に屯田兵制は廃止になった。
旭川兵村記念館
旭川市東旭川南一条6丁目8-14 電話:0166-36-1818
旭川の発祥の地・東旭川地区に建つ旭川兵村記念館は、今日の旭川を
築きあげた平民屯田兵の貴重な資料や当時の道具など今ではなかなか
見る機会のない資料が豊富に展示されている記念館です。
記念館に隣接して、1893年(明治26年)に建立された旭川神社がある。
入館料/大人500円、大学生・高校生400円、中学生・小学生200円
冬期間は、閉館しています!
<旭川兵村中隊記録及び屯田物語原画綴>
旭川兵村(東旭川屯田)中隊記録は,明治25年に配置された
第3大隊第3中隊(東旭川下兵村)第4中隊(東旭川上兵村)の実態を
明らかにする資料であり,屯田生活様式を克明に記した屯田物語原画
綴とともに屯田を中心とした地域社会の資料としても希少価値がある。
また,他の資料との比較検討等により北海道屯田兵及び地域社会に
関する歴史を追究する可能性も多くもった類のない資料で,旭川市の歴史 的遺産として貴重な資料。
旧神居古潭駅舎
所在地 旭川市江丹別町春日197-1
本駅舎は1910(明治43)年に建設され、その後二度に渡り増改築
がなされています。
1969(昭和44)年廃駅となりましたが、北海道では数少ない駅舎建築
として貴重であることから、廃駅後まもなく修復工事を施し、
旭川サイクリングロード休憩所としてオープンしています。
駅舎は、典型的な小規模駅舎建築で、下屋柱頭装飾など明治期の、
西洋建築意匠導入時の特徴を残す数少ない現存例であり、
1991(平成3)年市指定文化財となっています。
また駅構内には蒸気機関車3両(29638, C57 201, D51 6) が展示されている。
ちなみにC57 201はC57形機のラストナンバー機である。
旭川市彫刻美術館 (旧旭川偕行社)
1989年(平元)国の重要文化財の指定を受けています。
旭川市春光5条7丁目 TEL(0166)52-0033
この建物は、旧日本帝国陸軍第7師団が旭川に設営されたときに、
将校たちの社交場として1902年(明35)に建設されました。
建物は、おもに師団関係者の会議、研修会、講演会、宴会、結婚披露宴、
宿泊等に使用され、また、皇太子時代の大正天皇や昭和天皇の来旭の
折の行在所にも使用されました。
終戦後は、一時アメリカ軍の将校クラブとして使用され、1949年(昭24)、
建物は国から旭川市に移管されて、仮校舎などに使用されています。
1968年(昭43)この建物を博物館に転用するために、復元修理工事を実施し、市立旭川郷土博物館として、24年間にわたり保存活用されてきました。
1993年(平5)博物館の新築移転にともなって、新たに開設される彫刻美術館に転用されました。
中原悌二郎記念 旭川市彫刻美術館
日本の近代彫刻史に偉大な足跡を残した、旭川市ゆかりの彫刻家 中原悌二郎(1888~1921)を記念した彫刻専門の美術館として、1994年(平6)に開設されました。
この美術館には、中原悌二郎が残した12点の彫刻を中心に、悌二郎に大きな影響を与えたロダン、荻原守衛、悌二郎の親友であった石井鶴三、堀進二の作品と、旭川市が、1970年(昭45)に悌二郎の偉業を顕彰し、我が国の彫刻界の発展に寄与する目的で創設した中原悌二郎賞の受賞作品を所蔵しています。
また、中原悌二郎賞の第1回受賞者・木内克、悌二郎の影響で彫刻家になった加藤顕清、中原悌二郎賞の選考委員であった山内壮夫など、わが国の近・現代の彫刻作品を展示。
日本の陸軍軍人、華族。
永山盛広の四男として生まれた武四郎は、同じく鹿児島藩士の
永山喜八郎の養子となる。
戊辰戦争に従軍し、維新後の
明治4年7月陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
西南戦争に従軍する。
階級は屯田兵大佐となる。
明治維新後の日本がまず直接的に脅威だったのが当時の
帝政ロシアです。
樺太千島交換条約で北の国境は画定されていたものの、
ロシアはその後も強大な軍事力を背景に清国や朝鮮半島に
触手を延ばし、黙っていれば大半が未開の地であった北海道
への南下も明らかでした。
ロシアが北海道に上陸侵攻するとすれば大きく2つのルートが
考えられました。海軍力を背景にした樺太ルートと千島ルートです。
北海道内から見れば地理的に正反対ともいえるこの両方のルート
いずれにも対処するには、両側から均等の距離、つまり北海道のど真ん中に
軍事処点を置くのが良いわけで、沿岸部からできるだけ距離を置く必要性からも
上川は理想的な地形と位置にありました。
もちろん明治政府は北海道の開発という事も同時に考えたでしょうが、
それ以上にまずこのロシアからの国土防衛という事が第一にあったはずです。
だからこそ開拓に当たっては屯田兵という一石二鳥の手法を採ったのです。
屯田兵を母体とし明治29年に編成された。
初代師団長は薩摩出身の永山武四郎少将→中将で、
第二代(1900<明治33>~1906<明治39>年)が同じく薩摩の大迫尚敏中将だ。
大迫が率いて日露戦争に出征することになる。
写真は⇒北鎮記念館
旭川市立高等女学校(現・旭川市立北都中学校・立地)卒業。
国家のあり方や、自らも関わった軍国主義教育に疑問を抱き
1946年に退職。この頃肺結核を発病する。
北海道旭川市神楽7条8丁目2-15TEL :0166-69-2626
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