アイヌ文化 5 シャクシャインの戦い
シャクシャインの戦いは日高地方に生活圏をもつアイヌの人たち
2グループの漁猟権をめぐる争いから始まりました。
しかし、寛文9(1669)年には一方の統率者シャクシャインの呼びかけに
呼応した蝦夷地のアイヌの人たちと松前藩の全面戦争に発展しました。
戦いはほぼ互角に推移し、和睦を結ぶことになりました。
和睦の酒宴の席でシャクシャインはだまし討ちによって殺害され、
アイヌの人たちの戦いは終息しました。
これによって、アイヌの人たちは松前藩に従うことを認めなければなりませんでした。
これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢が不利とみると、だまし討ち
によって戦いを終わらせたことが何度かありました。
アイヌの人たちが容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌの人たちの交易者としての
側面があったことが指摘されています。
アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易は単なる品物の交換
ではなく、交易相手との無沙汰を丁重に述べるなどの厳粛な儀礼を伴ったものです。
したがって、和人側から言葉を尽くした和睦を持ちかけられると
それを一蹴せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者は威儀を正して、その場にいどみます。
戦い相手との再会儀礼などが滞りなくすみ、緊張がほぐれたところをだまし討ちにされました。
アイヌ文化 4 場所請負制
知行主はアイヌの人たちとの交易に要する経費、さらに生活費
までを商人から借用し、交易によって得た品物を商人に渡して借金
の返済にあてました。
商人への借金が増えると、知行主は一定の金額をとって、
商場を商人に請け負わせるようになりました。これを場所請負制といいます。
場所を請け負った商人は知行主と同じように商場でアイヌの人たちと交易を行っていました。
しかし、元文5(1740)年ころから始まったといわれる長崎俵物 (煎海鼠(いりなまこ)、
白干鮑(しらほしあわび)、昆布など)、本州における藍(あい)などの換金作物の肥料
となる〆粕(しめかす)などの漁獲物の需要が高まると、商人自らが漁業を行うようになります。
漁業に進出した商人は漁具の改良、新技術の導入によって、漁獲の増大をはかるとともに、
アイヌの人たちを漁場の労働力として使役するようになりました。
ここにおいて、これまで生産者・交易者であったアイヌの人たちは漁場に隷属させられた
労働者としてくらすことになります。
アイヌ文化 3 「アイヌの人たちと交易」
文禄2(1593)年、
蠣崎慶広 (武田信広から5代目)は名護屋で豊臣秀吉
慶長4(1599)年に大阪で徳川家康に会いました。
この時姓を蠣崎から松前に改めます。
その後、慶長9(1604)年には家康から黒印状が与えられ、
蝦夷地における交易の独占を認められました。
幕藩体制下に入った松前藩は本州他藩と異なり、藩士への禄に米を用いる
ことができず、主だった家臣には徳川幕府に承認されたアイヌの人たちとの
交易権を地域を限って分与しました。
これを商場(あきないば)あるいは場所と呼びました。
知行主 (商場を給された藩士)は、年に1度みずからの商場へ船を出し
その地域のアイヌの人たちと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し
その収益でくらしをたてました。
アイヌ文化 2 「コシャマイン親子」
康正2(1456)年、アイヌの若者が注文した小刀をめぐって
志苔 (現在の函館)の鍛冶屋と口論となり
鍛冶屋がその小刀で若者を刺し殺したことをきっかけに
翌年にはコシャマイン親子が立ち上がりました。
和人の増加に伴い、そのうちの有力者は領主化し、その拠点は舘と呼ばれ
渡島半島南端部には12の舘が点在していました。
コシャマイン親子はこれらの舘を次々に破り、2つの舘を残すだけになりました。
残った舘の一つ花沢舘 (舘主 蠣崎季繁・かきざき)の客将であった武田信広は
だまし討ちでコシャマイン親子を破り、全滅の危機を脱しました。
この功績で武田信広は蠣崎家を継ぎ、後の松前家の祖になります。
しかし、アイヌの人たちと和人の戦いは、その後、約100年にわたって断続的に行われました。
これらの戦いのいくつかは蠣崎家氏がその統率者をだまし討つことによって終わらせたものもあります。
長期に及ぶ戦いの起因は
アイヌの人たちと和人の間の政治的あるいは経済的な不和にあったと考えられています。
蠣崎氏は和人に対する支配者としての地位を固め、本州からやって来る商船からの徴税権を確保
していきましたが、政治的そして軍事的に安定したものではありませんでした。
天文19(1550)年
「夷荻の商舶往還の法度」を定め、アイヌの人たちの懐柔と妥協をはかりました。
これによって、アイヌの人たちの長2人をそれぞれ現在の上ノ国と知内に住まわせ、
両地をもって以北をアイヌの人たち、以南を和人の居住域とし、本州商船から徴収した税の
一部をそれぞれの長に分配しました。
また、海上を航行するアイヌの人たちの船は、西は上ノ国沖、東は知内沖で、帆を下ろして
一礼し、往来するようになりました。
アイヌ文化 1 「確認できるのはおおよそ15世紀ころ」
アイヌ文化の成立は12~13世紀ころといわれていますが、
私たちがアイヌの人たちを史料のうえで確認できるのはおおよそ
15世紀ころからです。
そのころ、アイヌの人たちは漁狩猟や植物採取を主な生業にしてくらし、
また他地域の人たちと交易を行っていました。
和人(注)がこの島に住み始めた時期は定かではありませんが、
15世紀ころにはその居住地は東は鵡川、西は余市まで広がり、現在の函館付近
には若狭 (福井県南西部)から商船が来航し、問屋や鍛冶屋も設けられていました。
蝦夷地 (北海道)からは蝦夷三品と呼ばれていた昆布、干サケ、ニシンや
北蝦夷地 (樺太、現サハリン)を経由した中国産品などが移出され、本州からは鉄製品、
漆器、酒などがもたらされました。
アイヌの人たちは本州へ移出される品物の直接、間接の生産者であり、交易者でした。
和人:明治以前においては、本州から渡来してきた人たちをいい、現在は、日本のなかで
一番人数の多い人たちを、アイヌの人たちと並べて呼ぶときの呼び名です。