- 2025/01/22 [PR]
- 2012/09/14 厚岸(あっけし)の町-----厚岸町郷土館 13
- 2012/09/13 厚岸(あっけし)の町------国泰寺 12
- 2012/09/12 厚岸(あっけし)の町------国後・目梨の戦い 11
- 2012/09/11 厚岸(あっけし)の町------アイヌと松前藩 10
- 2012/09/10 厚岸(あっけし)の町―近藤重蔵 9
- 2012/09/09 厚岸(あっけし)の町-----厚岸神社 8
- 2012/09/08 厚岸(あっけし)の町 厚岸神社の碑文 7
- 2012/09/07 厚岸(あっけし)の町 夷酋列像 6
- 2012/09/06 厚岸(あっけし)の町 幕府直轄 5
- 2012/09/04 厚岸(あっけし)の町 牡蠣定食 4
2012/09/12 01:10:47
蝦夷地関係年表 厚岸(あっけし)の町------国後・目梨の戦い 11
「国後・目梨の戦い」とは、
1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の戦いのこと。
国後場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリのアイヌが、
首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。
松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、
蜂起の中心となったアイヌは処刑された。
ツキノエ・ションコ・イトコイら帰順アイヌ40数名とマメキリ・ホニシアイヌ・セワハヤフ以下37名
の塩漬け首とともに松前に凱旋した。
松前藩主松前道広は上機嫌でツキノエらを歓待、弟で画家の蠣崎波響(かきざきはきょう)に
ツキノエらの姿を写させた。
これが現在まで伝えられている波響の代表作「夷酋列像」である。
松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を
新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。
ロシア使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の
寛政4年のことである。
(目梨とは、今の知床半島南岸羅臼町から中標津一帯のこと)
「国後・目梨の戦い」とは、
1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の戦いのこと。
国後場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリのアイヌが、
首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。
松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、
蜂起の中心となったアイヌは処刑された。
ツキノエ・ションコ・イトコイら帰順アイヌ40数名とマメキリ・ホニシアイヌ・セワハヤフ以下37名
の塩漬け首とともに松前に凱旋した。
松前藩主松前道広は上機嫌でツキノエらを歓待、弟で画家の蠣崎波響(かきざきはきょう)に
ツキノエらの姿を写させた。
これが現在まで伝えられている波響の代表作「夷酋列像」である。
松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を
新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。
ロシア使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の
寛政4年のことである。
(目梨とは、今の知床半島南岸羅臼町から中標津一帯のこと)
2012/09/10 09:19:41
厚岸(あっけし)の町―近藤重蔵 9
写真は国泰寺付近に出没する鹿!
今年は日本の領土問題が北から南からと大忙しだが、江戸幕府末期
も蝦夷地東方では大きな問題があった。
ロシアの南下政策に対する危機感だった。
現在の北方四島返還問題は1780年まで遡ってしまう。
近藤重蔵(1771―1829)江戸時代後期の幕臣で江戸の生まれ、探検家。
寛政10年(1798)、27歳の若さで松前蝦夷地御用取扱を命じられ、択捉に
ロシアの標柱に代えて「大日本恵土呂府」の標識を立てたことはあまりにも有名。
帰途、日高海岸の道が危険きわまりないことから、私費を投じて道を開き、
翌年には高田屋嘉兵衛をして択捉航路を開かせた。
また、千島アイヌに物品・漁具を与え、日本の風俗を勧め、移住者の促進
と海産物の生産向上に尽くし、文化 4年(1807)利尻巡視の帰途には、
石狩川下流を調査し、蝦夷地の本拠地を石狩の地とすべきことを建議した。
しかし、文政10年(1827)長男富蔵の殺傷事件の責任を問われ大溝藩、
お預けの身となり、波乱の生涯を閉じ、円光寺の塔頭瑞雪院に葬られた。
2012/09/09 05:17:28
厚岸(あっけし)の町-----厚岸神社 8
写真は厚岸神社、この境内に碑文が建てられている。
碑文の大意 2 私、守重(重蔵)は将軍の命を奉じ、東や北のえぞ地を巡察した。
4月に江戸を発し、5月松前着。食糧や服装を用意し、室蘭、えりもを越え、
6月厚岸に寄った。
ここで船を準備し従卒を揃へ、7月海を渡りエトロフに到着。
この航海は大変荒れたが神様の御加護を頼み帆走したので安全であった。
少人数の旅で野宿もしたが、官命を受けた私どもは無事であった。
帰り来て厚岸に泊まり、およそ一か月留まった。
そこで一棟の神社を創建し、北海の地と住民の人心を新たした。
かやぶきで、土の階段の質素なおやしろ、その神前でどぶろくの樽から、
杯を頂戴した
。いささか、住民の耳目の向うよりどころとし有難い江戸の御成光がここに
及ぶことを歓び感ずる次第である。
大日本寛政十年戉午(1798)十月十日 庚子江戸幕府将軍の使者である。
近藤重蔵(藤原守重)
写真は厚岸神社、この境内に碑文が建てられている。
碑文の大意 2 私、守重(重蔵)は将軍の命を奉じ、東や北のえぞ地を巡察した。
4月に江戸を発し、5月松前着。食糧や服装を用意し、室蘭、えりもを越え、
6月厚岸に寄った。
ここで船を準備し従卒を揃へ、7月海を渡りエトロフに到着。
この航海は大変荒れたが神様の御加護を頼み帆走したので安全であった。
少人数の旅で野宿もしたが、官命を受けた私どもは無事であった。
帰り来て厚岸に泊まり、およそ一か月留まった。
そこで一棟の神社を創建し、北海の地と住民の人心を新たした。
かやぶきで、土の階段の質素なおやしろ、その神前でどぶろくの樽から、
杯を頂戴した
。いささか、住民の耳目の向うよりどころとし有難い江戸の御成光がここに
及ぶことを歓び感ずる次第である。
大日本寛政十年戉午(1798)十月十日 庚子江戸幕府将軍の使者である。
近藤重蔵(藤原守重)
2012/09/08 09:23:05
厚岸(あっけし)の町 7
江戸幕府将軍の使者近藤重蔵(守重)が残した「碑文の大意」が、
厚岸神社境内に建てられている。
厚岸神社は国泰寺を上ったところにあり、その創建も書かれている。
全文を二日間に渡り紹介する。これを読めば、当時の蝦夷地の状況がわかる。
碑文の大意 1 わが国の東方の急所を守る要地・北方の要所の大切な港としては
厚岸が第一の重要な港である。これにつぐ港として柄鞆(室蘭)があるが、
中間にえりも港がある。
厚岸湾の入口に島があり大黒港といふ。
前に入江と岬があり、バルサンといっている由なので、私は東山(ハルサン)と名づけた。
南は釧路連なり、西は風廉(フウレン)に及ぶ。
北は斜里に達し、東は琵琶瀬に至る地形で、まことにこれは後世まで、東方第一の重要な港である。
続く