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幕別町(パークゴルフ)
 
パークゴルフは、日本で考案されたスポーツです。b2420d1d.jpeg
その名のとおり公園の芝生で楽しめるゴルフに似たスポーツ。
鳥取県泊村発祥の「グランドゴルフ」をヒントに、
1983年(昭和58年)に北海道・幕別町の公園の一画で誕生しました。

名前のとおり、公園(Park)の中にコースを設定しゴルフのプレーを
基本とし、ゴルフ場をより簡単にした公園の芝生の上でクラブでボール
を打ってカップに入れるだけのコミュニティースポーツ。
しかし、ゴルフ場のコースような戦略性に富んだ本格的コースも多くで
きてきたので結構奥が深く年々参加者が増えています。
 
パークゴルフ場の18ホールを全てまわると
約1時間30分(約2000歩)歩くことになりますので
運動不足の解消や健康増進にもつながるのが最大の特徴です。

初めは北海道を中心にして急速に普及し、北海道内ではほとんどの市町村に
自治体による公営のコースが造られ、現在は、自治体の公営コース、民間経営コースを含め、
沖縄、与論島に至るまで日本全国にコースができ、愛好者も北海道を中心に今や
全国で100万人に迫るまでになり、その人気はさらに高まっています。


 
 
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芽室町(ゲートボール)
 
芽室町(めむろちょう)は、北海道十勝支庁管内にある町。7.jpg
この町はゲートボール発祥の地です。
 
お年寄りのスポーツというイメージが強いゲートボール。
実は子供のためにつくられたということと、北海道から生まれたことは、
ほとんど知られていません。
ゲートボールは第二次世界大戦の直後、北海道芽室町でパン工場を
経営していた鈴木和伸氏の考案で、生まれました。
極端なモノ不足の時代、北海道各地をパンの営業で移動する中、道具
もなく外で遊べない子供たちの姿を見て心をいためていた創始者鈴木
和伸氏が、札幌で戦後処理の任務に就いていた時に見た、進駐軍が行
っていた「クロッケー」というゲームを参考にして考案したものです。
道具は旭川でつくられ、芽室町のパン工場の空き地で、ゲームのやり方
と規則書つくりが行なわれました。
 
現在の芽室町東4条1丁目付近の窪地が、「ゲートボール」誕生の場所です。

十勝平野
 
十勝平野は、
西は日高山脈、北は石狩山地、東は白糠丘陵にmap-obihiro.gif
囲まれており、南部は太平洋に面している。
北海道の全面積の10%ほどを占め、
平野の中を十勝川が流れ中心付近には帯広市がある。
帯広を含む十勝の農業は大型農業機械による大規模畑作経営が中心。
市内の農家1戸あたりの平均耕地面積は約24haで、北海道の平均17.41ha、
全国の平均1.57haを大きく上回っており、カロリーベースの食料自給率は
約280%(約48万人分)と人口の割に非常に高い。
 
主な作物は小麦・ジャガイモ・ビート・豆で、近年は長いもやごぼうといった、
この地域特産の野菜の生産も進んでいる。
全国的にも知名度の高い菓子製造会社六花亭や柳月、クランベリーは、帯広市に本社を置いている。


帯広の豚丼
 
帯広の開拓の祖”依田勉三”が
十勝・帯広の開拓に入ったのが明治16年。c8b54e28.jpeg
「開拓の初めは豚とひとつ鍋」と勉三が詠むように、
”一つの鉄鍋と豚しか無い、開拓という苦労のありさま”
を今に伝えています。
帯広市の大衆食堂「ぱんちょう」
(店名は中国語の「飯所」に由来する)
創業者、阿部秀司氏によって1933年(昭和8年)に開発されました。
十勝地方では、明治時代末に養豚が始まり、大正末期には豚肉料理
が一般的になりつつありましたが、料理法が限定され、特に豚カツなど
は庶民が食べるものではありませんでした。
阿部氏は庶民にも食べられる料理ということで、鰻丼をヒントにした醤油味
の豚丼を開発。
 
帯広駅北口前の東西の通りに面した、豚丼専門店「ぱんちょう」があります。

帯広百年記念館
 
帯広百年記念館は、明治16年、開拓団体の晩成社が
現在の帯広に初めて開拓の鍬をおろしてからちょうど
obihiro-museum.jpg100年目にあたる昭和57年に建てられました。
常設展示室は第1展示室と第2展示室に分かれており、
1展示室では十勝の自然や開拓期のようすから
農業王国・十勝へと発展するまで、
2展示室では十勝平野の形成から先住民であるアイヌ
の人々の生活のようすまでを展示しています。

十勝のアイヌ文化コーナーでは、和人が開拓に入るずっと以前から
恵まれた自然のなかで狩りや漁、植物採集を中心に生活を営んでいた
アイヌの人々の十勝川沿いに多くみられる集落や伝統的な
生活のようすを紹介しています。

◆開 館:AM9:30~PM4:30
◆休 館:毎週月曜日、祝日の翌日、年末年始
◆所在地:帯広市緑ヶ丘2番地  TEL.0155-24-5352


 晩成社
 
晩成社は、依田勉三の北海道開拓の志(こころざし)をもとに、
土地開墾、農業、牧畜、造林などを目的として
dc3be366.gif1882(明治15)年、静岡県伊豆国那賀郡大沢村
(現、賀茂郡松崎町大沢)で同地の豪農、
依田家によって結成された会社です。
(資本金を5万円。当時の1円は、現在の4000円)
 
社長は勉三の兄・佐二平、副社長は勉三と弟の善吾でした。
また、勉三が東京で勉学中に知り合った友人で、
渡辺勝、鈴木銃太郎が幹部として参加しました。
会社結成後、開拓地選定のため勉三と銃太郎が渡道し、
河西郡下帯広村(現・帯広市)を予定地と決め、
1883(明治16)年5月、勉三率いる晩成社移民団一行13戸27名が入植しました。
 
入植地に到着して最初に行う仕事は、とりあえず寝泊まりができる仮小屋造り。
それは、棒を数本、上部を縛って円錐形に立て、その周辺を草、木の皮、葦などで
覆ったものや、上部が二股になったY字形の棒を2本立てて柱とし、棒を横に渡し、
それに左右から斜めに木をもたせかけて草や木の皮などで覆うものだった。
これらは、両手の指先を合わせたような形であることから「拝み小屋」とも呼ばれる。
やがて、木を切り倒し、ムシロを敷いて、居間、炊事場などを作り、住まいらしくなった。
しかし、すきま風が多く寒さが厳しい夜は、夜通し炉を絶やすことができなかった。
開拓初期を象徴する道具といえば、
開拓小屋の炉の上に常に吊り下げられていた鉄鍋(自在鍋)である。
十勝開拓の先駆者、晩成社の依田勉三が
「開拓のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだように、一つの鍋で全ての煮炊きをした。
 


帯広市
 
帯広市は、北海道東部の十勝[とかち]地方のほぼ中央に位置する
人口約17万人のまちです。
obihiro_ichi.gif 
明治16年(1883年)に本格的に開拓がはじまり、碁盤目状の道路網
など計画的な市街地形成を行ってきました。 
農業を主要産業とする十勝地方(約35万人、1市16町2村)の中心地
であり、農産物集積地、商業都市としての役割を担っています。


帯広の街は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による
開拓ではなく、静岡県出身の依田勉三率いる晩成社
一行が1883年(明治16年)に入植したのが開拓の始まり。
1895年(明治28年)に通称十勝監獄が開設され、受刑者によって大通が整備され市街地が形成された。
市街は計画的に整備されており、帯広駅を中心に碁盤目状の区画が四方に広がり、大通公園から北東、北西、南東、南西に対角線方向の道路(火防線)が設けられてい.る。


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
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