地崎宇三郎 (初代)
(ちざき うさぶろう・しょだい)
明治2年10月17日 – 昭和11年4月2日)
北海道を代表する土木業者の地崎組の創業者。日本の実業家。富山県出身。
雑仮商地崎嘉吉の長男で、父の死後に大阪で米相場をするも失敗。
1891年に室蘭線建設中の今村菊太郎現場に入り、同年10月10日に
伊達紋別から虻田間掘削道路工事の下請け会社として独立。
1893年に札幌で請負人資格を取得。
以後、明治から大正・昭和にかけて、道央・道北地域の干拓事業・開拓道路工事・
灌漑溝修復工事・護岸工事を受注し、1910年土木業者初の鉄道指定業者となり、
函館本線・室蘭線の複線化を手がけた。
業界内でも札幌土木請負業組合発足以来の組合員で評議員・顧問を務め、
鉄道業者団体・昭和土木協会会長も歴任。
性格は、一本気で責任感が強く、どん底から這い上がっただけに仕事に誇りを持ってこなし、
期限を厳守したことから役所・鉄道からの信任も厚かった。
支払いも必ず5日払いで、物資は必ず札幌で調達したという。
同郷で旭川市の土木業・荒井組の荒井初一とは仲が良かったとされる。
また、信仰心も厚く北海道神宮の第二鳥居を寄進した。
札幌市東区本町2条3丁目
現在の苗穂地区は、東区に属していますが、札幌でも古くから拓けたエリアの一つです。
明治3年酒田県(現在の山形県)からの入植者が苗穂村で開墾を始めその後雁来村と合併しましたが、明治42年には国鉄苗穂工場が創業したことが契機となって続々と工場が生まれ、昭和8年には苗穂一帯が札幌市の工業地域に指定されています。
苗穂神社もこれら工場の建ち並ぶ沿道沿いにあります。神社の隣は、札幌小学校がありますが、この学校の前身は、明治6年設置された教育所でこの付近が開拓の中心地だった様です。
この神社は、明治4年に苗穂村と命名されてから着々と開拓が進められましたが、人々の心のよりどころとしての[やしろ]造営の気運が高まり明治30年8月27日、札幌神社(現北海道神宮)からご祭神[小彦名神]のご分霊を奉戴して[苗穂神社]が創建されました。
現在の社殿は、昭和52年創建80年を記念して改造営されたものです。
鳥居の側に[苗穂神社]の石柱が建てられています。この碑は、昭和41年が札幌村開基百年記念と記されています。この地区も現在で一世紀半近くの歴史を持った地域なのです。
数少ない碑の中で[岩田徳治顕彰碑]があります。
岩田徳治氏は、現在北海道地区でトップランクの建設業である岩田建設の創始者ですが、北海道議会議員としても北海道政にも永く参画した功労者の一人です。
苗穂地区の発展にも大きな足跡を遺し、神社の境内に顕彰碑が建立されています。
翌年には、明治天皇にも献上され、銀座の名物として大ヒット。
時代と共に月寒あんぱんも変化し、甘味を抑えて当時より大きさも一回り小さくなったが、上質な原料と丹念な製法は今も変わらず。
彼の作品・関係資料の収集・展示を行なっている美術館である。
作品が遺族から北海道へ寄贈されたことを機に発足した。
大正から昭和初期の日本近代洋画史に鮮やかな光彩を放った
画家・三岸好太郎を紹介する美術館。
三岸芸術をさまざまな角度からとらえた特別展の他、講演会や音楽会などが開催される。
開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)
北海道ゆかりの作家の作品を中心とした絵画や彫刻を
常設展示しています。
優れたガラス工芸品のコレクションは秀逸で、全国的にも有名。
営業時間 9:30~17:00(入場は16:30まで)
休館日 月曜(祝日は開館)、年末年始、展示替期間
料金 常設展:大人450円・高大生220円(高校生は毎週土曜日、無料)、
特別展:展覧会ごとに設定します
アクセス 地下鉄東西線「西18丁目駅」4番出口から徒歩5分。
月寒川
http://eyevio.jp/movie/241429
月寒川(つきさむかわ)は、札幌市豊平区および白石区を流れる
石狩川水系豊平川支流の一級河川である。
1940年代まで「つきさっぷ」と読んだ。
下流部は「逆川(さかさがわ)」とも呼ばれていた。
札幌市豊平区南部の低い丘陵に源を発し、北へ流れて西岡水源地に注ぐ。
池から出ると住宅地に入り、北北東へ流れる。
やがて北東に向きを変え、ラウネナイ川をあわせてから白石区に入る。
そのまま北東に流れ、函館本線と交差する手前で北へ方向を転じ、直線的流路を通って豊平川に合流する。
月寒の地名語源は、アイヌ語で摩擦式の火起こし道具を意味する「チキサプ」。
その原料に使われるチキサニ(ハルニレ)の木が周囲に生えていたから、との説がある。
もとは「つきさっぷ」と読んだが、第二次世界大戦中に、難読を嫌った陸軍の要請で「つきさむ」に改められた。
1909年(明治42年)に西岡水源池から水道を引き、1971年(昭和46年)まで利用した。
その後、池を西岡公園(水源池公園)として整備した。
当時の施設の一部が、「旧西岡水源池取水塔」として残っている。
池から北側の中下流川沿いの低地は、大正時代には水田であり、下流の右岸には大谷地原野が広がっていた。
戦後は札幌市の人口増によって住宅地に大きく変貌したが、上流は今でも森林が生い茂る。
下流部は昔、逆川ともいった。
かつて石狩川が増水すると、しばしば水が各支流に入り込んで逆流したからである。
低地を流れる月寒川も増水し、溢れて被害をもたらすことが多かったが、のちの直線的な新流路の開削により大規模な洪水被害は解消された。
旧流路は札幌ジャンクションの西側を流れる河川として「逆川」の名で残されている。
札幌市 清田区
114,788人(人口、2009年9月30日)
清田区(きよたく)は、1997年豊平区の東部を分区して設置された。
清田区の中心部はかつて「あしりべつ」と呼ばれていました。
明治6年(1873年)に月寒開拓団の一員であった長岡重治(ながおか じゅうじ)が
「あしりべつ」へ居住したのが最初の入植と言われています。
その後個別に一戸、一戸と増え、明治34年(1901年)頃、清田、真栄、北野の厚別川
周辺の稲作と平岡、里塚、有明の畑作が定着してから集落として成り立つようになり、
旧集落は厚別(アシリベツ:現在の清田、北野、平岡、真栄を総称)、三里塚(現在の里塚)、
公有地(現在の有明)と呼ばれていました。
安政4年(1857年)に開通した札幌越新道(銭函~星置~島松~千歳)は、明治5年
(1872年)開拓使顧問ケプロンの建言によって、札幌~千歳間を整備し札幌本道(室蘭街道)
と呼ばれるようになり、現在の国道36号のもととなりました。
苫小牧・室蘭からの主要道路で、旅人の便宜を図るため、明治2年(1869年)頃木村某が
通行屋を営みました。その後長岡徳太郎(ながおか とくたろう)が通行屋を経営し、札幌市
東南部の玄関口として利用されてきました。
明治24年(1891年)に吉田善太郎(よしだ ぜんたろう)らが厚別川に用水路を建設し 、また
大正10年(1921年)頃から平岡、里塚ではリンゴ栽培が始まり、稲作技術の改良も進み、
厚別川の周辺には水田が広がり、酪農も畑作地帯で始まっていきました。
札幌市 厚別区
129,528人(人口、2009年9月30日)
厚別区の語源はアイヌ語の「ハシ・ペッ(カンボクの中を流れる川)」とも、
「アッ・ペッ(オヒョウダモのある川、または魚のとれる豊かな川)」ともいわれています。
この「厚別」という字が正式に使われたのは、明治27年に開設された、現在のJR厚別駅の駅名でした。
厚別区は、札幌市では、面積が一番小さな区。
とはいっても、東京都の多摩市や千葉県の習志野市など、厚別区より小さい面積の市町村は、全国にたくさんあります。
厚別地区の本格的な開拓は、明治15年(1882年)に、この地を経由して、札幌と幌内炭鉱(三笠市)の間に鉄道が開通したことから始まりました。
現在の厚別中央から厚別西にかけての、JR厚別駅周辺には、明治16年に河西由造たち8戸が入植しました。この人たちは、長野県出身で、当時長野県のあたりを「信州信濃」と呼んでいたことから、この入植地も、
通称「信州開墾地」とか「信濃開拓地」と呼ばれるようになりました。
現在も、小・中学校や神社・公園などに、この名が残っています。
明治18年になって、現在の青葉町ともみじ台を含めた下野幌地区に、
石松弥七と小ケ口石太郎が、上野幌地区には小ケ口石松、石井市郎兵衛、大崎三平、太田鉄五郎らがそれぞれ入植しました。
また、大谷地にも阿住勘五郎、駒林鉄五郎が入り、開拓のクワが入れられました。
現在の厚別北と厚別東を含む小野幌地区は、これより少し遅れて、明治22年に秋本槌五郎が入り、炭焼きを始めました。
山本地区は、さらに遅れ、小樽の山本久右衛門が、北海道からこの地の払い下げを受け、明治42年から開墾に着手しました。
この後も、多くの開拓者が厚別地区に入りましたが、白石区のように、本州からの集団で、直接移住したのではありません.小樽や札幌の中心にいったん定住した後、移り住んだ人がほとんどでした。
最初は原生林や湿地帯、川の氾濫などに悩まされ、再び厚別の地を離れて行く人も多く、人々が定着し始めたのは、明治35年ころのことでした。
厚別区も緑に恵まれ、野幌森林公園を中心に、多くの動植物を目にすることができます。
札幌市 手稲区
139,293人(人口、2009年9月30日)
手稲区1989年に西区から分区して誕生した。
手稲という地名はアイヌ語の「テイネィ/teyne-i」(濡れている・もの)
に由来し、区市街地の広がる山麓の開拓される前にあった低湿地帯
を指すといわれる。
・1872年 発寒村から分離、手稲村が開村する。
手稲は、明治の初期に北海道の開拓を支える交通の要所として開けた街。
開拓当時、主に小樽港を基点に物資の補給が行われていたので、軽川
(現在の手稲本町)やサンタロペツ(現在の富丘)が、小樽港から開拓使本府
の置かれた札幌への陸上輸送の中継点となりました。
物資の集散地区となった軽川やサンタロペツには人々が集まり始め、集落が
形成されるようになりました。
明治の中ころになると手稲山口に山口県から、星置には広島県からそれぞれ入植者があり、
農耕地の開墾を始めました。また、不毛の地であった前田や新発寒は、酪農を主とした農場
へとその姿を変えていきました。
明治の終わりには、新川の川辺などで土器のかけらが発見され、昭和に入ってからも完全な
形の土器が見つかり本格的な発掘調査が行われました。
その結果、紀元前2000年もの昔に先住民族が生活していたことがわかり、この遺跡は
「手稲遺跡」と名付けられました。
明治の中ころには手稲山で金鉱脈が発見され、昭和10年代には鉱山が最盛期を迎えました。
昭和46年に閉山しました。
昭和42年、手稲町は札幌市と合併。
以後、新興住宅地が次々とでき、発展のスピードも急ピッチとなりました。
昭和47年に札幌市の政令指定都市移行に伴い(旧)西区となり、また、
札幌冬季オリンピックが開催され、アルペン競技やボブスレー、リュージュ競技の会場となった手稲山は世界にその名を知られるようになりました。
平成元年11月6日、人口の著しい増加に伴ってそれまでの西区から分区し、いまの手稲区が誕生しました。
手稲区は、手稲町時代からの市街地と昭和40年代以降開発された新しい地域で構成され、分区から10年で30%以上も人口が増えています。