白石の歴史は、戊辰戦争に敗れた仙台藩白石領(現在の宮城県白石市)
の藩士が、明治4年11月に望月寒(現在の中央付近)の地に開墾の鍬を
入れたことに始まります。
「白石」の名の由来は、入植者が真冬の寒さに耐えながら、半月足らず
で現在の国道12号沿いに(白石公園付近から白石神社の間)小屋47戸
を完成させた開墾ぶりに、開拓使の岩村判官が感心し、郷里の名をとっ
て「白石村」と命名したことによります。
仙台藩白石領の藩士など600余人が、明治4年9月、北海道への移住を
目指し、咸臨丸などで出帆し、そのうち67人が明治4年11月、原始林が石狩川河畔まで続く最月寒の地(現在の白石中央付近)に開墾の鍬を入れたことにはじまります。翌年の2月中旬までには、104戸380人が白石村へ移住しました。
白石村は、現在のJR白石駅から南区定山渓を結ぶ定山渓鉄道が大正7年に開業(昭和44年廃止)、東区苗穂と苫小牧市を結ぶ北海道鉄道(後の国鉄千歳線)が南郷・東札幌地区を通って大正15年に開業(昭和48年廃止)するなかで、大きな発展を遂げました。
昭和25年7月、白石村は札幌市に合併されましたが、札幌市が政令指定都市となった昭和47年4月、行政区の名として、親しみやすく地域を包括的に言い表すことなどが考慮され、「白石区」が誕生しました。
その後、地下鉄東西線の開通や厚別副都心計画の進展などにより、著しい人口増加が続いたため、平成元年11月に厚別川を基本線に分区し、西側が現在の白石区となっています。
札幌市 豊平区 2
交通網の発達
大正時代に入ると、豊平町にもいくつかの交通機関が登場してきました。
大正2年(1913年)には、月寒から札幌の中心部まで客馬車が走りました。
大正7年(1918年)には、豊平、平岸を通って定山渓に至る定山渓鉄道が開通。
さらに、大正13年(1924年)には、路面電車が豊平川を越えて、豊平地区まで延びたのです。
また、同じころ、月寒まで乗合バスも営業を始めました。
昭和に入って間もなく、2年(1927年)には、路面電車を札幌市が買収し、市電となります。
バスや電車が行き交い、定山渓鉄道も交差していた室蘭街道(現在の国道36号)は、商店も建ち並び、まさに交通の要衝と呼ぶにふさわしいにぎわいを見せていたのです。
農業の盛衰
明治時代から始まった平岸地区のリンゴ栽培。
この「平岸リンゴ」の名は、全国的に有名になったばかりでなく、明治中期から後期にかけては旧ソ連のウラジオストックに、また、昭和11年(1936年)には試験的ながらシンガポールに輸出されるほどに栄えたのです。しかし、このリンゴ栽培も、宅地化の波にのまれ、次第に姿を消していくことになります。
札幌市との合併とその後の発展
徐々に都市化が進行していった昭和36年(1961年)、豊平町は、郷土のさらなる発展のため、札幌市と合併しました。
人口も増加の一途をたどり、交通体系にも変化の兆しが現れます。
自家用車の普及などの影響で、昭和44年(1969年)には定山渓鉄道が、また同46年(1971年)には市電豊平線が、それぞれ廃止され、代わって、同年、地下鉄南北線が開通したのです。
さらにその翌年の2月、冬季オリンピック大会が開催され、同年4月には札幌市が政令指定都市となり、区制の施行に伴って、豊平区が誕生しました。
昭和49年(1974年)には、現在の豊平区役所庁舎が完成。環状通の区役所付近から国道36号にかけての中央分離帯にはリンゴの木が植樹され、リンゴ並木として整備されました。
平成6年(1994年)には、地下鉄東豊線が福住まで延長され、平成8年(1996年)には人口も30万人を突破。翌9年(1997年)には、清田区が豊平区から分区しました。
そして、平成13年(2001年)に札幌ドームが羊ケ丘に誕生。豊平区のシンボルとなるドームでは、各種のスポーツ・文化のイベントが開催され、また平成16年(2004年)には北海道日本ハムファイターズの本拠地となり、多くの人たちがこの施設を訪れています。
札幌市 豊平区 1
209,656人(人口、2009年9月30日)
豊平の名は、「崩れた崖」を意味するアイヌ語のトイエピラに由来する。
今の豊平橋付近を指す地名である。
豊平区の街並みをその歴史や位置から分類すると豊平・平岸・月寒の
三地域に大別されます。
豊平地域は、明治時代からの歴史を感じさせる寺社と再開発事業による
近代的なホテルや住宅のビルが新旧の味わいを見せています。
平岸地域はかつて平岸リンゴの産地として名をはせましたが、現在は都心
に直結する住宅地に変貌しています。
月寒地域は、落ちついた住宅街ですが、北海道日本ハムファイターズの本拠地である札幌ド-ムも、この地域内の羊ケ丘にあります。
札幌開祖 志村鐵一(しむら てついち)
安政4年(1857年)、当時の幕府の命により、銭箱(現在の小樽市銭函)から千歳・勇払に至る札幌越新道が開削されました。これに伴って、現在の豊平3条1丁目付近で、通行屋(旅行者の休憩・宿泊施設)の建設が始まりました。
札幌市内最初の和人居住者の一人といわれ、「札幌開祖」とも呼ばれた志村鐵一は、この時代に豊平の地に定住し、通行屋の番人も務めました。
本州からの開拓移民
明治4年(1871年)には、現在の岩手県出身の人々が平岸・月寒などに
移住して、開拓が始まりました。
その後、明治5年(1872年)には平岸村と月寒村が、そして、明治7年
(1874年)には豊平村が誕生。
また、明治8年(1875年)には、技師ホルトの設計による初代の豊平橋
が完成しています。
村の発展
これら三つの村は、それぞれが異なった形で発展していきました。
平岸村は、豊平川上流域までを含み、後に「平岸リンゴ」として有名になるリンゴの栽培などで
栄えていきました。
月寒村は、当初は現在の北広島市方面までを範囲としており、農業を中心とした街でしたが、
明治29年(1896年)に当時の陸軍第七師団の兵営が設置され、後に歩兵第二十五連隊として、
長くこの地に置かれたことにより、軍都としての性格を併せ持つことになりました。
さらに、豊平村は、室蘭街道(現在の国道36号)から当時の札幌区に入る玄関口として、商店や
宿などが建ち並び、にぎわいを見せました。
アンパン道路
明治35年(1902年)、豊平・月寒・平岸の三村が合併して、新たに豊平村となりました。
そして、明治41年(1908年)には、豊平町に昇格。
さらに、同43年(1910年)、現在の豊平地区が札幌区に編入し、町役場が豊平から月寒に移転したことにより、月寒は行政の中心地として栄えたのです。
役場の移転に伴い、平岸の人たちが役場のある月寒へ直接行けるよう、新たに道路の開削が行われました。
札幌市 東区
252,986人(人口、2009年9月30日)
東区(ひがしく)は、
1955年に札幌市に合併した札幌村の区域を引き継いで、1972年に設けられた。
札幌市の区では、北区に次ぎ2番目に人口が多い。
江戸時代、もともと伏籠川(伏古川)上流付近(現在の苗穂町付近に相当する地域)には松前藩の
知行地として石狩十三場所のひとつナイホウ場所が開かれ蝦夷の人々との交易が行われていた。
札幌村の開村は幕末に遡り、明治に建設された札幌市より古い。
1866年(慶応2年)箱館奉行の命を受けた大友亀太郎ら数十人が
現在の北十三条東十六丁目付近に入ったのが始まりである。
後にこの場所は石狩国札幌郡に属し札幌元村とよばれた。
1870年(明治3年) 羽前国、越後国から入植があり、札幌村の近く
に居住した柏崎県からの入植者の区域を札幌新村といった。
別に、酒田県(山形県)から入植した人々による苗穂村、丘珠村ができた。
これらが合併して生まれたのが札幌村で、札幌市の北東郊外にある農村
として発展した。
札幌市の拡大につれて南西部から市街化され、1955年(昭和30年)に札幌市に合併した。
1972年(昭和47年)に札幌市が政令指定都市になったときの分区で、かつての札幌村の
区域を引き継ぐ形で東区が置かれた。
札幌市 西区
西区(にしく)は、札幌市の10区の中では2番目に大きい面積。
左股川、琴似発寒川を境にした東側一帯の旧琴似町地域と
西側一帯(発寒地区は旧琴似町に含む)の旧手稲町地域と
からなっています。
これらの地域には、和人の入地以前からアイヌ民族が生活を営み独自の
文化を築いていました。
旧琴似町地域の中で、和人の居住が入地記録上早くから見受けられるの
は発寒地区です。
安政4年に幕府旗本の武士20名とその従者が辺境の警備と開墾のために入地しましたが、
一村を形成するには至りませんでした。
その後、明治4年に開拓使が現在の南4条通以南に近在の移住者を集めて作った辛未(しんび)村
から44戸が同年、八軒、二十四軒地区などに移住し開拓に従事しました。
しかし、本格的な開拓は屯田兵によるところが大きく、明治7年の屯田兵例則の制定が開拓に大きな
影響を与えています。
明治8年には仙台亘理(わたり)藩(宮城県)、斗南(となみ)藩(青森県の南部地方)、庄内藩(山形県)
の士族たちが琴似地区(現在の琴似本通沿い)に、翌9年には発寒地区(現在の稲荷線沿い)に
それぞれ入植し屯田兵村を形成しました。
一方、旧手稲町地域の開拓は、明治4年西野地区に越後から5戸が入植したのが始まりとされていま
すが、本格的なものは明治5年仙台藩(宮城県)白石城主片倉小十郎の家臣たちが宮の沢地区に
47戸入植したのが最初です。
その後、明治20年までに西野、平和、福井などの地区に広島県人や福井県人などが相次いで入植。
昭和30年になり琴似町が、42年には手稲町がそれぞれ札幌市と合併。
その後の人口増加に伴い農地は次第に住宅地と化し、街は大きく様変わりしました。
平成元年11月6日、西区を分区して手稲区と新しい西区が誕生しました。
札幌市 南区
南区(みなみく)は、札幌市の南西部一帯を占める行政区である。
区域面積は札幌市の6割に達するが、その多くは山林である。
区域の大半は支笏洞爺国立公園にも属する山岳地帯で、後志山地
の北東部にあたる。
札幌岳、余市岳など標高1,000 mを超える山が17座ある。
豊平川上流の定山渓は温泉地として知られ、年間200万人を超える
観光客を集める。
定山渓に近い豊羽鉱山は銀・亜鉛・インジウムなどを産するが、鉱量
不足のため2006年3月をもって操業を休止した。
札幌のシンボルの一つといえる藻岩山や市民の水がめである豊平峡ダム、
定山渓ダムがあるほか、恵まれた自然を生かした大規模な滝野すずらん丘陵公園や軟石採掘場跡を造成した石山緑地、札幌国際スキー場、ハイキングコースなど多くの憩いの場が整備されている。
農業では市内10区中3位の耕地面積を有し、果樹栽培も盛んで、観光果樹園は市民の人気を集めている。
年表
1866年 美濃の僧侶・美泉定山が温泉を発見。のちに定山渓温泉と名付けられる。
1871年 本願寺道路(現在の国道230号の前身)が開通。
1916年 豊羽鉱山開業。
1918年 白石から定山渓まで定山渓鉄道が開通(1969年廃止)。
1946年 アメリカ軍が真駒内種畜場を接収し、キャンプ・クロフォードを建設。
1955年 この年からキャンプクロフォードの返還が始まり、替わって陸上自衛隊の駐屯地が置かれる。
1972年 真駒内を主会場に札幌冬季オリンピックを開催。
札幌市が政令指定都市に移行したのに伴い、中央区・北区・東区・白石区・豊平区・西区とと
もに南区が設置される。
札幌市 中央区
中央区(ちゅうおうく)は、札幌市の中央部を占める行政区である。
北海道庁をはじめとする官庁や、企業の本社・支社が多く、市の
中核をなす。札幌開拓の歴史は、中央区の歴史でもあります。
明治2年に開拓使が設置され、島義勇判官が札幌本府の建設に着手。
その志を受け継いだ岩村通俊判官の手により、明治4年から本格的な
街づくりが始まりました。
まず、市街地は渡島通(現在の南1条通)と大友堀(現在の創成川)を
基点に、1町(約109メートル)四方に区切り、東西南北に走る11間
(20メートル)道路が設けられました。
また、街の中央には東西に幅およそ105メートルの火防線
(現在の大通公園)を設け、北側を官地、南側を民地としました。
歴史
1857年(安政4年) ・志村鉄一と吉田茂八が、豊平川の渡し守となる
1866年(慶応2年) ・大友亀太郎、大友堀(のちの創成川)を掘る
1869年(明治2年) ・開拓使設置、初代長官に鍋島直正・島判官、札幌本府建設に着手(現北1西1)
1871年(明治4年) ・開拓使仮本庁竣工(北4東1)
・判官岩村通俊官営"薄野遊郭"を建設(南4条通り)
1876年(明治9年) ・クラーク博士が来る
1878年(明治11年) ・札幌農学校演武場(時計台)落成
1882年(明治15年) ・開拓使廃止。函館、根室、札幌の3県設置
1885年(明治18年) ・狸小路に勧工場設置(南2西1)・屯田兵条例制定
1886年(明治19年) ・3県を廃止、札幌に北海道庁を設置
1887年(明治20年) ・札幌ビール会社設立。
札幌市北区
276,771人(2009年10月1日人口)
札幌に開拓使が置かれ、島義勇判官によって街の建設が始められ
たのは明治2年(1869年)のこと。
昭和2年(1927年)、この地域に市電鉄北線(北6条~北18条)が開通。
昭和33年(1958年)には日本最初の路面ディーゼルカーが登場、
昭和49年(1974年)、全面的に廃止になるまで北5条から新琴似駅前
まで多くの人を運びました。
旧琴似町である新琴似、新川、屯田の各地区は、屯田兵によって開拓
が始まりました。
明治20年(1887年)には、九州の士族を中心に屯田兵146戸が新琴似
に入植。
明治22年(1889年))には熊本ほか6県の士族220戸が新琴似の北隣
に入植、旧篠路兵村(現・屯田地区)となりました。
札幌広しといえども「屯田」が正式に地名に残るのは、ここ北区の屯田地区のみとなっています。
札幌で一番早く開拓が始まった篠路地区では、
明治11年(1878年)、札幌と石狩を結ぶ石狩新道が造られると北陸や九州、四国、中国地方など
から農民が次々と移住してきました。
この辺りは一大低湿地帯のため、年中行事のように河川のはんらんに遭ったり、凶作に見舞わ
れたりしました。
明治39年(1906年)には農民と士族の対立のため、
創成川を境にして農民中心の篠路村から屯田兵中心の篠路兵村を分離しました。
篠路地区ではこれより早い安政6年(1859年)ころ
には、福島県出身の早山清太郎により開拓が進められていました。
札幌市の中心部に接する鉄西地区には、
明治4年(1871年)、札幌最初の公園「偕楽園」が造られました。
誰もが自由に憩える'公園'としては、この「偕楽園」が日本で第1号とされています。
また、明治36年(1903年)には札幌農学校(現・北海道大学)が現在の時計台の辺りから
今の地に移転しました。
石狩国
その他の国
胆振国
1869年8月蝦夷(えぞ)地を北海道と改めた際建置された。
渡島半島の付け根から北海道中央部にかけての地。
山越(やまこし)・虻田(あぶた)・室蘭(むろらん)・幌別(ほろべつ)・白老(しらおい)・勇払(ゆうふつ)・千歳(ちとせ)の8ヵ郡を含む。
渡島国
1869年8月蝦夷(えぞ)地を北海道と改めた際に建置された。
北海道最南端,渡島半島南部に位置し,亀田(かめだ)・茅部(かやべ)・上磯(かみいそ)・福島・津軽・檜山(ひやま)・爾志(にし)の7郡を含んだ。
釧路国
1869年蝦夷(えぞ)地を北海道と改めた際建置された。
北海道東部に位置し,中央部には釧路湿原が広がる厚岸(あっけし)・釧路(くしろ)・白糠(しらぬか)・阿寒(あかん)・足寄(あしょろ)・川上(あわかみ)・網走(あばしり)の7郡を含む。
北見国
1869年蝦夷(えぞ)地を北海道と改めた際に建置された。
北海道東北部に位置し,斜里(しゃり)・網走(あばしり)・常呂(ところ)・紋別(もんべつ)・枝幸(えさし)・宗谷(そうや)・礼文(れぶん)・利尻(りしり)の8郡を含む。
後志国
1869年蝦夷地を北海道と改めた際建置された。
北海道西部,奥尻(おくしり)・太櫓(ふとろ)・瀬棚(せたな)・島牧(しままき)・積丹(しゃこたん)・小樽(おたる)など17郡を含み,江戸時代から鰊漁で栄えた地域。