札幌市 年表4 大正~昭和
1918年(大正7年)
札幌電気軌道(現在の札幌市電)が開通する。
第五番目の帝国大学として北海道帝国大学が設置される。東北帝国大学農科大学が
北海道帝国大学に移管され、北海道帝国大学農科大学となる。
定山渓鉄道が開通する(~1969年)。
1922年(大正11年)
市制施行。札幌市となる。
軽石軌道が開通する(~1940年)。
1930年(昭和5年)
札幌市営バスの運行開始(~2004年(平成16年)3月)
1937年(昭和12年)
第五回冬季オリンピック(1940年)の開催が決定したが、国際情勢の悪化により、翌年返上。
1941年(昭和16年)
円山町と合併。現在の中央区の一部(西20丁目以西、旭ヶ丘など)、南区の一部(川沿、南沢、
藻岩下など)となる。
1942年(昭和17年)
札幌飛行場(丘珠空港)設置。
1947年(昭和22年)
地方自治法施行による市長公選。
五代目市長(公選初代)高田富與就任(昭和22年4月~昭和34年4月)
1950年(昭和25年)
白石村と合併。現在の白石区の一部(既に札幌市であった菊水を除く)、厚別区の全体となる。
第1回さっぽろ雪まつり開催。
1955年(昭和30年)
琴似町、札幌村、篠路村と合併。
現在の中央区(宮の森、盤渓は旧琴似町)、北区(新琴似、新川、屯田、北25条?以北は旧琴似町、
篠路は旧篠路村)、東区(大部分は旧札幌村)、西区(旧手稲町の平和、西町、宮の沢を除き旧琴似町)、
手稲区(新発寒は旧琴似町)の各一部となる。
1957年(昭和32年)
大通にテレビ塔ができる。
1961年(昭和36年)
豊平町と合併。現在の豊平区の一部(既に札幌市であった豊平、旭町、水車町を除く)、
清田区と南区の大部分となる。
1967年(昭和42年)
手稲町と合併。現在の西区(平和、西町、宮の沢)、手稲区(旧琴似町であった新発寒を除く)
の各一部となる。
1968年(昭和43年)
北海道100年記念式典・札幌市創建100年記念式典が行われる。
1971年(昭和46年)
七代目市長(公選三代目)板垣武四就任(昭和46年4月~平成3年5月)
札幌市営地下鉄南北線(北24条駅~真駒内駅)が開業。
札幌市 年表3 明治時代
1873年(明治6年)
現在の白石区菊水・菊水上町・菊水元町地区に既に白石村に入植していた
仙台藩士の一部が移動して再入植。上白石村となる。
現在の東区苗穂町に、既に対雁村(現江別市)に入植していた仙台藩涌谷領の
農民の一部が移動して再入植。雁来村となる。
1875年(明治8年)
現在の西区琴似地区に屯田兵が入植。琴似(ことに)村となる。
開拓使仮学校が東京より移転する。
1876年(明治9年)
現在の中央区曙・山鼻・幌西地区の全体および豊水・西創成・西地区の一部(他は札幌区)
に屯田兵が入植。山鼻(やまはな)村となる。
開拓使仮学校を札幌農学校と改める。
1880年(明治13年)
札幌全域を札幌区と改称する。
札幌~小樽手宮間に鉄道開通。
要人接待用の施設として、大通に豊平館が建設される(現在は中島公園に移転)。
1882年(明治15年)
開拓使廃止。函館・札幌・根室の3県に分ける。
1884年(明治17年)
札幌区を札幌郡に変更し、札幌市街地のみを分割して札幌区とし、札幌区役所を設置した。
1886年(明治19年)
札幌・函館・根室の3県を廃止し、北海道庁を設置。
1888年(明治21年)
北海道庁赤れんが庁舎ができる。
1889年(明治22年)
札幌で最後の屯田兵入植(篠路兵村:現在の北区屯田)。
1899年(明治32年)
区制施行。札幌区となる。区とは市よりも小さく町よりも大きな自治体である。
札幌区以外に道内には他に函館区と小樽区があった。
初代区長 対馬嘉三郎就任(明治32年12月~明治35年5月)
1907年(明治40年)
東北帝国大学設置(宮城県仙台市)。
札幌農学校が札幌所在のまま東北帝国大学農科大学となる。
1910年(明治43年)
札幌区周辺の札幌村(現在の東区の一部)と苗穂村(現在の中央区と東区の一部)と
上白石村(現在の白石区の一部)の各一部、豊平村(現在の豊平区の一部)の豊平・旭町・水車町、
山鼻村(現在の中央区の一部)の屯田兵村地区を編入。
この時の札幌区の区域は現在の中央区、北区、東区、白石区、豊平区の各一部である。
通行屋とは
北海道開拓のために
開拓史<北方開拓のために1869年(明治2年)~1882年(明治15年)>
が主要道路の要所に設置した施設のこと。
早馬の乗り継ぎ場所として、また旅行者や北海道開拓者の宿泊所として利用され、
交通事情が悪かった開拓時代にあっては大切な施設だった。
当時、類似施設として「駅逓所」があった。
通行屋とほぼ同様の機能を持っていたが、駅逓所は郵便の仕事も行なっていた。
どちらも北海道の開拓に大きな役割を担った。
札幌に現在残っているのは、簾舞(みすまい)通行屋で、1872年(明治5年)に建てられた。
その他に、三樽別、厚別、定山渓などがあった。
明治20年以前の札幌近郊の駅邸は、松島、札幌、篠路、対雁があった。
札幌市
年表 1 <明治時代>
1868年(明治元年)
1869年(明治2年)
開拓使設置。同年、北海道11国86郡が置かれ、現在の札幌市に相当する地域は
石狩国札幌郡に含まれた。
現在の中央区本府・中央・東・東北・大通・桑園地区の全体と豊水・西創成・西地区の一部
(他は山鼻村)と北区鉄西・幌北地区と東区鉄東地区に札幌本府の建設を始める。
また、この年札幌神社(後の北海道神宮)が創建された。
1870年(明治3年)
現在の中央区苗穂地区および東区苗穂地区に山形県人が入植。苗穂(なえぼ)村となる。
現在の東区丘珠地区に山形県人が入植。丘珠(おかだま)村となる。
1870年(明治3年)~1871年
本願寺道路(後の国道230号)が建設される。このとき、現在の札幌市南区簾舞に宿場
として簾舞通行屋がおかれた。
1871年(明治4年)
現在の白石区中央・本通地区に宮城県白石市から仙台藩の重臣・片倉家の家臣団が入植。
白石(しろいし)村となる。
現在の豊平区月寒、福住地区に岩手県人が入植。月寒(つきさっぷ)村となる。
現在の豊平区平岸地区に水沢藩士と農民(現地札幌で募集した農民も含む)が入植。
平岸(ひらぎし)村となる。
1872年(明治5年)
現在の豊平区豊平・美園地区に和人が入植。豊平(とよひら)村となる。
1872年(明治5年)~1873年
札幌市 3
年表(江戸時代)
安政年間 西本願寺札幌出張所(後の本願寺札幌別院)がおかれる。
1855年(安政2年)
篠路に若宮八幡(後の篠路神社)が創建される。
1856年(安政3年)
発寒に稲荷社(後の発寒神社)が創建される。
1857年(安政4年)
箱館奉行によって銭函と千歳を結ぶ札幌越新道(千歳新道)
が開削され、これにともない
現在の豊平橋付近に石狩役所・荒井金助の命を受けた和人
が渡し守として定住。
志村と家族の3名が右岸(現在の豊平区側)に、吉田茂八と家族の4名が左岸
(現在の中央区側)に、それぞれ住んだ。
1866年(慶応2年)
現在の東区内の札幌村郷土記念館敷地に役宅が建てられ幕臣大友亀太郎が定住、
大友堀(後の創成川)を開削。付近は札幌村となる。
同年、現在の南区内の定山渓温泉に美泉定山によって湯治場が開かれている。
慶応年間 札幌村の本龍寺境内に妙見堂が建立される。
札幌市 2
江戸時代、松前藩によって開かれた石狩十三場所が
1780年代中頃から末期(天明末から寛政初め)にかけて確立。
そのうち五場所が札幌市に相当する地域で、
幕末ころまでは蝦夷(アイヌ)との交易が行われる土地であった。
これら場所と呼ばれる松前藩家臣の知行地は幕末ころまで存続した。
石狩十三場所(いしかりじゅうさんばしょ)
イシカリ十三場所とは、石狩川および支流に
設置された「場所」(交易を行う範囲)の総称。
狭義には運上屋(うんじょうや)・元小屋などのある
石狩川の河口部を指した。
イシカリ十三場所の一覧
1. トクヒラ 石狩川左岸河口付近 石狩市
2. ハッシャブ (現在の茨戸川左岸、発寒川合流地付近、現北区内) 札幌市
3. シノロ (現在の茨戸川左岸、篠路川合流地付近、現北区内) 札幌市
4. ナイホウ (伏古川上流付近、現東区内) 札幌市
5. 上サッポロ (豊平川流域) 札幌市
6. 下サッポロ (豊平川流域) 札幌市
7. 上ツイシカリ 石狩川左岸、豊平川合流地付近か 江別市など
8. 下ツイシカリ 石狩川左岸、豊平川合流地付近か 江別市など
9. 上ユウバリ 夕張川流域 ―
10. 下ユウバリ 夕張川流域 ―
11. 上カバタ 夕張川流域 ―
12. 下カバタ 夕張川流域 ―
13. シュママップ 島松川流域 恵庭市、北広島市石狩温泉番屋の湯
鮭番屋が建っていた地の入浴施設石狩浜の日帰り温泉で
郷土料理も石狩灯台近く、石狩浜の日帰り入浴施設。
慶長年間(1596年〜1614年)に「石狩十三場所」と称され
鮭番屋が建っていた場所だ。
札幌市 1
1,901,656人(人口、2009年5月1日)
札幌市(さっぽろし)は
道庁所在地ならびに石狩支庁所在地。
名の語源は、アイヌ語の「サリ・ポロ・ペッ」
(その葦原が・広大な・川)とする説と
「サッ・ポロ・ペッ」(乾いた・大きな・川)とする説などがある。
政令指定都市の中では浜松市、静岡市に次ぐ広大な面積を持ち、
東京特別区を含めて全国5番目の人口を有する。
アイヌの人たちが住んでいた蝦夷(えぞ)地は、
明治2年(1869年)に北海道と改称されて、開拓使が置かれ
札幌本府の建設が始まりました。
判官・島義勇(しま よしたけ)は、円山の丘からはるか東方を見渡し
街づくりの構想を練ったといわれています。
明治8年(1875年)、最初の屯田兵が入植。
人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築く。
北海道開拓使によって、京都あるいは、アメリカ合衆国のタウンシップ制をモデルとした
碁盤目状の計画都市として本格的に開発された。
大正11年(1922年)の市制施行以来、近隣町村との度重なる合併・編入によって、
市域・人口を拡大してきたが、昭和45年(1970年)には人口が100万人を突破し、
2年後の昭和47年(1972年)に政令指定都市へ移行する。
政令指定都市札幌には、現在10の行政区がある。
●中央区 ●北区 ●東区 ●白石区 ●厚別区 ●豊平区●清田区 ●南区 ●西区 ●手稲区
五番館デパート(札幌)
明治39年、札幌興農園が札幌で初めての
百貨店を開業、電話番号が5番だったので
「五番館」という名前が付けられました。
札幌駅前に建つ赤レンガの洋館は横浜の西洋館を模したもので
明治時代の駅前
「三越は見る店、丸井遊ぶ店、五番館は買う店」というもので
それぞれのデパートの特徴を楽しく表しています。
五番館の創業者は、五番館興農園を開いた
小川二郎ですが、小川二郎から店舗の譲渡をうけ
その経営に携わつたのが小田良治 (おだりょうじ)
です。
小田良治は、1872年(明治5年)8月8日、大分県
速見郡日出町で生まれました。
小田良治は、1890年(明治23年)単身アメリカに渡り
サンフランシスコ商業高校を卒業しています。
1897年(明治30年)帰国して三井物産に勤務し札幌駐在員となり、
札幌所長時代に五番館興農園を譲受け五番館発展の基盤を作りました。
彼は、1943年(昭和18年)2月に享年72才で死去。
彼の生涯は、アメリカで学んだ資本主義を経営の面で実践し、札幌の商業界に
新風を巻き込み経済の発展を推し進めた功績は大きなものがありました。
簾舞(みすまい)通行屋
簾舞川(みすまいかわ)は、
札幌市南区を流れる豊平川支流の河川。
川の名は、アイヌ語で「峡谷があるところ」を意味する
「ニセイ・オマプ」。
これが訛って「ミソマップ」になり、現在の「みすまい」になった。
簾舞通行屋(みすまいつうこうや)は、
明治5年に建築された公営の宿泊施設。
本願寺道路の宿泊施設として現在の簾舞中学校あたりに建設された。
札幌本道の開通により明治17年に廃止された。
黒岩家は明治19年の有珠街道の開通後、物資の運搬に関わり
旅館業を続け、地域の開発に尽力した。
更に開拓使時代初期の家屋構造を今に伝える貴重な建物。
掘削が行われてからである。
ては128カ所のカーブが存在し最大12%の勾配がある道路は危険
であり、道路を新しくすることにした。
の道はルート選定が難航。