おたる水族館
所在地 小樽市祝津3丁目303番地
小樽水族館は1959年(昭和41年)
に小樽市立水族館として発足しました。
オホーツク海・ベーリング海の魚たちや、
日本ではここしか会えないネズミイルカのほか、
ゴマフアザラシのほのぼのプール、海のパノラマ回遊水槽、
もちろんクリオネや寒い北海道のしばれる海の生き物が
見られます。
【イルカスタジアム】では、
アシカの仲間のオタリアのおもしろおかしい小学校と
迫力満点の豪快なバンドウイルカのショウが見られます。
【海獣公園】は日本海の海岸をそのまま水族館
にした作りで、大きな身体のトドやセイウチ、日本近海で
見られる5種類のアザラシをはじめ、多くの海獣動物たちを
見ることが出来ます。
よく訓練されたものだと感心します。
皆さんもぜひいってみてください。
小樽築港駅
小樽駅から札幌に向って2つ目の駅。
複合商業施設ウイングベイ小樽と直結しています。
小樽市が駅南口前に設置したモニュメントには、
「小林多喜二(1903-1933)住居跡(旧若竹町18番地)」のタイトル
に続いて『明治末期、秋田から移住した多喜二の一家は、
鉄道線路を背に、小さなパン屋を営んでいた。
当時、家の裏手は築港の工事現場で、タコと呼ばれた土工夫が
過酷な労働にあえぎ、非人間的なタコ部屋に押し込まれていた
(タコ部屋労働)。
その実体は多喜二の心に深く焼き付けられ、
後年「人を殺す犬」「監獄部屋」などの作品を生んだ。
秀作「同志田口の感傷」の姉弟が鰯漁で湧き立つ熊唯浜(東小樽)へ
行くのもこの家からである。(後略)と書かれている。
住吉神社の大鳥居が見えます。
と拝殿、そうして地下道でつながる木造の社務所があります。
2度の移転を経て現在の場所に移ったのは明治14年。
当時は墨江社と呼ばれ住吉神社と名を改めたのは明治24年。
奥沢までの間に露店の朝市が出たといわれています。
さまざまな神輿は小樽の夏の風物詩です。
中でも、大正初期に小樽の職人がつくった百貫神輿は、道内最大級
の神輿として有名です。例祭では、神楽、舞楽、太々神楽なども奉納されます。
小樽駅
小樽駅は明治36年に小樽中央駅として開業
(当時は蘭島駅- 小樽中央駅間の部分開業)。
駅舎は上野駅がモチーフ。
かつては函館駅から道内各地を結ぶ特急・急行列車が
停車していた。
その往時を偲ばせる非常に広い構内となっている。
現在は旅客輸送の大半が航空機に転移し、
貨物列車や札幌と函館を結ぶ特急列車なども勾配が緩く
高速運転が可能な千歳線・室蘭本線経由へ変更されている。
2003年より4番線ホームは、小樽にゆかりの深い石原裕次郎に
ちなんで「裕次郎ホーム」と愛称がつけられた。
等身大パネルが設置され、ホームの番号表示灯の数字の「4」が
ヨットに見立てたデザインになっているほか、裕次郎の曲も流されている。
小樽の街は、この駅も含めて映画のロケによく使われています。
朝里地区のニシン番屋の建設に来ていた、石工の長兵衛によって
偶然洞くつ内の岩壁にさまざまな文様が刻まれていることを発見しました。
今からおよそ1,600年前頃の続縄文(ぞくじょうもん)時代中頃~後半の時代
で、本州の弥生(やよい)時代の終わり頃から古墳時代の初めの時期に
あたります。
縄文文化をさらに発展させた狩猟採集文化の時期で、その文化は新潟県から
サハリンにまで及んでいました。
イギリス人のジョン・ミルンで明治13年にアジア協会誌にその全容を紹介しました。
明治11年当時開拓使官僚だった榎本武揚も視察に訪れています。
以前は古代文字として知られ、その解釈には色々な説がありましたが、
最近の考古学会では古代絵画彫刻として研究され4世紀頃のものであることが判明しています。
発見から130年ほど経過し傷みが進んできたため保存工事を行い平成7年に保存館が完成しました。
手宮洞窟保存館では、壁面彫刻を実際に目にすることができます。
9:30~17:00
■休館日
・4/1~11/3 無休
・11/4~3/31、月曜日、祝日の翌日
(曜日の関係で変更あり、要事前確認)
・12/29~1/3
■入館料
一般 100円
高校生・市内の高齢者 50円
小・中学生 無料
本尊は釈迦如来。
、寛永7(1630)年に松前藩主7代公廣の追善供養のため福山に
建立されましたが、明治42(1909)年に羅漢像や建物の部材ととも
に小樽に移設されたものです。
この五百羅漢像は、14代章廣が供養のため南部藩主に依頼し
文政8(1825)年盛岡より勧請し宗圓寺に納めたといわれていますが
室町~桃山時代の作と思われるもの11体、江戸中期のもの236体、
江戸末期のもの268体という調査結果が報告されています。
このうち江戸中期のものの製作者名「暉常(うんじょう)」は最近の調査で
松前に居住した能面師であったことが判りました。
製作者についても一様ではありませんが、北海道での仏教信仰や
彫刻の歴史を考えるうえで重要な資料となっています。