当初はニシン漁場の中継倉庫。建築は明治24年。
屋号「北一」、建てたのは
海産物業・倉庫業・船問屋・不動産業などで成功した木村円吉。
次々にこの近辺に倉庫を建て、1号から9号倉庫までが建てられた。
臨港線と堺町大通りに挟まれた
3号倉庫は、昭和58年北一硝子3号館として蘇った。
空間を利用し、ガラス製品の販売店として観光客が群れを成している。
木骨石造り建築の倉庫内が中央の通路で分かれており、その通路に荷物搬入用
のトロッコのレールが今も残っている。
この周辺には北一関係のガラス工房やベネチア美術館などが立ち並んでいる。
網元達が競って造った木造建築物。
木造建築物で、明治中期~末期のものは和洋折衷の様式を取り入れ
ているものもあり、流行に敏感な一流の棟梁を招聘して造らせた。
内部は多層構造となっており、1階は網元の居宅、ニシンの加工場。
ニシンの見張り台となっていることが多い。
明治30年頃、当時鰊大尽と呼ばれた積丹半島有数の網元田中福松
が7年の歳月をかけ泊村に建設したのを移築したものです。
なかにし礼「石狩挽歌」の歌詞にも登場します。
「龍宮閣」という3階建ての建物は、
京都の清水寺を凌ぐと絶賛され、お伽噺の龍宮城を彷彿とさせた
といわれ、最盛期には一日数千人もの人々がこの地を訪れたといいます。
完成した遊園地には、800人収容の大演芸場、児童遊園地、大衆食堂などがあり、
断崖に刻んだ山道を進み、唐門をくぐると、まるで海底の龍宮城が岩棚にうちあげられ
たような「龍宮閣」がありました。
華美な風俗がしだいに自粛を余儀なくされ営業休止。
よって炎に包まれました。
ロケーションだったことがわかります。
遊歩道トンネルの部分だけがあります。
小林多喜二文学碑(小樽市旭展望台)
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年~1933年)は、
プロレタリア文学の代表的作家。
秋田県秋田郡下川沿村(現大館市)生まれ、
4歳の時に小樽に移住。
1929年に「蟹工船」を「戦旗」に発表し、一躍注目を
集め同年7月には新築地劇団によって『北緯五十度以北』という
タイトルで帝国劇場にて上演された。
同時に特高警察から要注意人物としてマークされ始める。
1933年2月20日に逮捕され、築地警察署で取り調べられ
その後築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死去した。
なお、警察当局は、翌21日に「心臓麻痺」による死と発表したが
翌日遺族に返された多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に
腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。
しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。
小樽市旭展望台に小林多喜二文学碑があります。
昭和39年に建立。設計は本郷新。
見開き本の形の右に獄中書簡のレリーフ、左に青年労働者の頭部像がはめ込まれている。
海陽亭
1895年の大火により再建を余儀なくされ、
「開陽亭」と改名。
その後「海陽亭」と文字を改め現在に至っております。
明治39年(1904)、日露戦争終戦後の日露国境画定会議
が小樽でもたれ、その祝宴がここ海陽亭・明石の間で
開かれました。
戦後景気は街を益々発展させ、豪商たちが夜な夜な
海陽亭にその姿を見せ、伊藤博文、原敬らが訪れ
「いながらにして山が見え、海が見える料亭」
と言われたのがこの海陽亭。
場所は堺町のオルゴール堂の裏手にあります。
石原慎太郎や故石原裕次郎も縁が深い場所としても有名です。
完全予約制の割烹料理店。
100年以上にも渡る歴史が感じられる建造物がほぼそのままで
残っており亭内見学(1000円)も可能です。