⑥寿都町 弁慶岬・義経の物見台
その昔、糠森という場所そのものが弁慶の土俵だったそうな。
「はっけよい!」力自慢の弁慶の大相撲。
弁慶土俵 (寿都町・糠森)
土俵づくりに使った糠の残りが岩となって出来たそうです。
土俵の大きさは幅20m、周囲に30cmの土盛りがされており、
あたりには4本の柱の跡、弁慶が履いていた大きな下駄の足跡、
上方には義経が座った物見台もあったということです。
力自慢の弁慶は、相撲の相手を手加減しません。
勢いあまって投げ飛ばされた人は、崖下に転げ落ち、 鼻血で岩を赤く染めました。
近くの岩が"赤岩"と呼ばれているのはそのためです。
向うところ敵なしの弁慶も、義経を相手に相撲した時だけは、 尻もちをついて負けたということです。
北海道内のおもな義経伝説 5
⑤岩内町 <雷電岬>
義経はアイヌの襲撃に遭うが、神罰と悟ったアイヌの人々は介抱し、
メヌカという娘が熱心だった。義経出発の朝――
「雷電」の地名は、「らいねん」?(岩内町、雷電)
義経一行は、雷電の険しい山間で当時のアイヌの首長チパの襲撃に遭い、
囚われの身となってしまいました。
勝利をおさめたアイヌの人々が、祝いの席を開こうとした時のこと。
突然祭壇の"イナウ"が倒れてしまいました。
これは、 義経を捕らえた神罰と悟ったアイヌの人々は、 一行を手厚く介抱することにしました。
傷も癒え、やがて春が来て、旅支度を始める義経一行。
そんな光景を目に涙をいっぱいためて見守る少女がいました。
チパの娘、メヌカです。 義経を介抱するうち、いつしか恋が芽生えていたのでした。
とうとう出発の朝がきてしまいました。
泣きくずれて別れを惜しむメヌカを慰めて義経は 「来年はきっと帰る、それまでの別れだ」と告げました。
「来年まで待っているわ」。 二人の交わした最後のことば"らいねん"がいつからか「雷電」の
地名になったということです。
弁慶を慰めた雷電の海刀掛岩 (岩内町雷電・国道沿い海側雷電岬)
義経一行の中で力持ちの弁慶は、いつも頼り甲斐のある存在でした。
雷電まで来た一行がちょっとひとやすみした時のこと。
いつもは片時も離さない刀ですが、 弁慶は近くの岩をちょいとひねって刀を掛け。
いつしかこの岩を「刀掛岩」、 この岬を「刀掛岬」と呼ぶようになりました。
また、一行が雷電にしばらく滞在している間、 弁慶はしばしば磯釣りを楽しんだそうです。
そんな時も刀掛岩がおおいに役立ったということです。
武器や財宝が眠っている?不落の洞窟 (岩内町雷電・刀掛岩の横)
刀掛岬を海伝いに船で南に回れば、
どこまで続くかわからないような洞窟があります。
内部の高さは約16m、幅4m、広いところでは20mほどで、 奥行きは約80m位まで確認されています。
以前迷って入った犬が寿都で発見されたことから、
洞窟は寿都までつながっていると言われています。
洞窟へは、船で渡るルートしかないため、 義経に関係のあったアイヌの首長チパが
武器や財宝を隠したという伝説が残っています。
刀掛岩の近くですから、弁慶が財宝の見張りをしていたのかもしれません。
また、この底しれない穴は「また来年」と言って 義経と別れたアイヌの娘メヌカが、
戻らぬ義経に失恋、 投身自殺をしたところとして「悲恋の穴」とも呼ばれています。
④積丹町 <チャレンカ・シララ姫伝説>
<神威岩伝説>
神威岬先端の岩。
義経に想いを寄せるチャレンカは、知らせず旅立った事を知り、
「和人の船、婦女を乗せてここを過ぐればすなわち覆沈せん」という言葉を残して海へ。
岩と化した。
女性を乗せた船がこの沖を過ぎようとすると必ず転覆し、神威岩はかつて女人禁制だった
というから、穏やかでない。
ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園にふくまれる積丹町余別の西岸の景勝地。
日高の平取から雷電岬を越えて、岬の沖にさしかかった義経一行は、
荒波にもまれて今にも難破しそうになりました。
義経は、神威岩と海の神、風の神に祈りを捧げると、 ふしぎなことに
波も風もおさまり、無事通過できました。
一説には、平取のアイヌの娘、チャレンカもまた義経を慕って後を追い、 船の行く手をはばむために
身投げしたのが、 立岩として残っていると伝えられています。
神威岬はその昔女人禁制の地といわれ、 女性が乗った船がこの辺りを通るとチャレンカの恨みに
よって、 必ず転覆したと伝えられています。
現在、神威岬への遊歩道は"チャレンカの小道"といわれ、 野鳥のさえずりを聞きながら散策を楽しめます。
義経を追って、高波にのまれたシララ姫伝説
積丹岬の東、入舸は昔アイヌの人たちが住んでいたところです。
義経一行は、日本海沿岸を北上、 神威岬の沖を船で通過しようとしていました。 ところが、この辺りは、風の強さと潮の流れの早い難所。
荒海に櫂を流され、かろうじて入舸に流れつきました。 首長は娘のシララに義経を介抱させ、義経の傷も順調に回復していきました。 海辺を散歩する義経とシララの姿は、ほほえましい光景でした。しかし、ここも義経にとって安住の地でなく、 一族の再興をはかる大望を胸に船出をしたのです。 シララは岩伝いに船を追いましたが、 折りから満潮となった大波にのみこまれてしまいました。波間に沈んだかと思うとシララは浮かびあがり、 そのまま岩になったということです。
現在、"シララ姫の小道"と呼ばれる積丹岬周辺は、 奇岩の多いビューポイントです。