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2



シャクシャイン2

日高の静内町から長万部の国縫までは、距離にして約228キロ。
今は車で4時間30分、高速道路も開通しており、2時間30分もあれ
ば行けるところだ。

しかし、この間には今でいえば豊浦町の礼文華峠・静狩峠がある。
この峠越えが、東海道でいえば箱根の山にあたり、超えるに超えら
れなかった。

静内~豊浦までは182キロ。
豊浦から長万部・国縫までは46キロのところである。

写真は、静内の遺跡場所を記した地図
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1



シャクシャインについて1

日高郡新ひだか町静内はシャクシャイン砦があった所。
1669年(寛文9年)、今から350年前のことである。
昨年この一画に、松浦武四郎の碑が建てられた。
武四郎は三重以上に北海道で人気があり、数えていないが
100ヶ所ほどあるのではないかと思う。
武四郎が蝦夷探検で静内を通ったのは、シャクシャインが
亡くなってから200年も経ってからである。

この一画に、シャクシャインの像が建てられているのだが
この像の下が実際にシャチがあった場所である。
今、この像の下の発掘の計画がある。
発掘までには、銅像を作成した彫刻家の権利などがあるの
で簡単なことではないが、是非実現していただきたいと思
う。



シャクシャインについて

このアイヌ民族の蜂起を休んでいるが、静内から室蘭・虻田まで
書いてきてシャクシャインが先頭集団にいないことに疑問を持った。

それで、いろいろと調べて止まっている。

アイヌ民族には、文字の文化がないので分からないことだらけ。
それでも「シャクシャイン」に強い関心を持って、小説や童話、紙芝居、
漫画などの作品にした人は多く、それらを20冊ほど比べてみた。

それぞれ、資料には苦労したようで想像して書くより仕方がなかった
のだろう。
殺害された場所も、さまざまで写真の場所もその一つ。
場所は静内の隣町新冠で、「判官館森林公園」。
九郎判官源義経の伝説の館あと。



 35 9

アイヌ民族の蜂起 35

 シャクシャインの戦い(9)

  シャクシャイン達の一行を悩ませたのが「虻田の礼文華・静狩峠」であった。
 
礼文華・静狩峠の海沿いは、崖が垂直に切り立っており、人も獣も海沿いを避けて
山越えをしなければならいな難所であった。

 

 明治時代に入り開拓使がケプロンの提案で札幌本道(札幌から函館)の開削
    をおこなうが、この峠を避けて室蘭からは航海で森町につけた。

更に、明治10年イギリスの女性探検家がこの「礼文華山道」を越える旅の記録がある。
    「峠の距離は15キロ。馬に乗っても一時間に一マイル(1.6キロ)」
  急峻な断崖が続くため、峰を歩くことでしか通過できないという記録があるところで
   難所であった。
     礼文華山道とは、有珠火山の南麓、現在の洞爺湖町から静狩
      (しずかり 長万部の東街)に至る約40kmをいう。
 
 武器と食糧を持ったアイヌの軍団がこの悪路で分断されてしまう。
  今でも、この静狩峠を越えると長万部平野が眼下に見渡せる。
     その先には太平洋が大きく広がってくる。
     峠を降りて、海岸を南下するとそこは国縫であった。


(写真は、木幣)

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アイヌ民族の蜂起 34

 シャクシャインの戦い(8)

  シブチャリ(静内)を出たシャクシャインの軍勢は、海岸沿いに西へ西へと進み、
仲間を増やし一行がシコツ(支笏)に着いた時には、そこにも日本海の余市・積丹
の手勢も到着していた。
  しかし、やはり石狩のハウカセの姿はなかった。
  増毛の襲撃はあったが、石狩ではなかった。石狩は中立に回ったのだ。
 しかし、軍勢は2000人を越えていた。

 シャクシャインは、たとえハウエルが動かなくても瀬棚のアイコウインと恵山の
ヒコジロウが野田生で待っていると信じていたので作戦を変えることなく松前を目指
すことを決行した。

 浦河のツノウシとマクワ、幌別のチメンバ、新冠のウエンスルシを大将とする先陣が
シコツを出発し、シャクシャインが後陣として続いた。
一行は、二年前に噴火した樽前山の隕石が打ち寄せた浜辺を進み、エトモ(室蘭)へ
到着した。エトモでも待ち構えていた手勢で更に人員は増えた。
 しかし、これを見ていた虻田アイヌは松前に走った。

 エトモ(室蘭)を過ぎると、6年前の有珠山噴火で吹き出した溶岩や、折り重なる倒木、
さらには降り積もった隕石が足場を奪った。
ここからが戦線を左右する通行の難儀続きの場所であった。

有珠の先は、礼文華・静狩峠という蝦夷の島で一、二を競う交通の難所であったのだ。

     寛文9年(1669年)7月のことであった。

(写真は、アイヌの弓と矢)

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アイヌ民族の蜂起 33

 シャクシャインの戦い(7)

  6月14日からのシコツ(胆振・支笏)近辺での和人船襲撃は、シャクシャイン勢に
とっては思った以上の戦果であった。
襲撃の手口は、荷揚げの手伝いや再会の挨拶、商いのふりをして和人船に乗り込み、
突然切り込んで、周囲の小舟から毒矢を降らせるというものだった。
乗組員を殺して食糧や武器を奪うというものであった。
 シャクシャインの元には、東・西蝦夷と各地からの戦果が次々に知らせられた。
増毛からの戦果に皆喜んだ。石狩が立ち上がったと思ったのである。
 
 7月に入ると、松前まで攻め上ろうという次の作戦が釧路や十勝の衆から開始された。
厚岸の衆がまず釧路・十勝沿岸を南下し、白糠や音別の衆と合流しながら襟裳岬を越
えて、シブチャリ(静内)に集まってきた。
 シブチャリに着く頃までには800人ほどに膨れ上がった。
このような戦いで集まる集団は初めてであった。しかし、群集心理も重なり武器や食糧
を手にしているので、意気盛んであった。
 

 7月中旬、いよいよシブチャリに集まった800人が動き出した。
 
  「   和人船襲撃により、松前までの食糧と武器は手に入れた。
        東も西も島中のアイヌは同心となった。
        更に仲間を増やし、一挙に松前まで攻め入ろう。
         シコツ(苫小牧)には石狩と余市の衆が待ち、
       ノダオイにはセタナイや内浦の衆が待っている。

                さあ出発だ                   」

        シャクシャインが大号令をかけたのである。

  (写真は、霊送りの化粧ょ終えた熊の神)



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アイヌ民族の蜂起 32

 シャクシャインの戦い(6)

  寛文9年(1669年)7月5日のとこであった。今度は西蝦夷の異変が伝えられた。
大船清三郎の持ち船に乗っていた水主(かこ)が、深手を負って松前にたどりつき
襲撃されたことを語ったのである。
 東蝦夷異変の第一報が届いたのは前月の21日だった。
その15日後に西蝦夷もシャクシャインに加担したことを知った。
松前藩は、これで蝦夷地には誰も味方がいないことを悟ったのであった。
松前藩の家臣は80余名ほどであったので、町が騒然となり津軽に逃げだそうとし
たのは当然であった。
 

 松前藩は、すでに第一報を江戸に送っていたが、続いて第二報の使者を江戸と
東北の藩主あてに走らせた。
使者には「百挺の鉄砲を貸してほしい」と伝えさせたのであった。
 百挺しか持たない松前藩が、ここまでに鉄砲を貸して欲しいと頼んだ数は五百挺
にもなっていた。

 和人地と蝦夷地の境には関所を設けていた。この場所は現在の熊石であった。
 7月6日、松前藩は西蝦夷の番所である、相沼内・熊石・関内に松前左衛門、蛎崎
采女らを大将に雑兵を含めて500人を送った。
熊石から50キロ北には、セタナイ(瀬棚)首長のアイコウインがいたので、それを封じ
込めようとしたのである。
更に、人を増やし7月初旬には1000人を越えるほどのものものしさであった。
 
(写真は、アイヌのヨロイ)

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アイヌ民族の蜂起 31

 シャクシャインの戦い(5)

  寛文9年(1669年)6月25日、松前藩は重臣を江戸の北条正房のもとに派遣した。
また、弘前藩にも通報した。

         松前藩の使者が江戸に着いたのは7月11日。

           弘前藩に着いたのが6月30日であった。


 江戸藩邸では、この報を幕府に知らせるべきか迷い13日になってようやく報告した。
弘前藩は、松前藩が幕府へ報告したのを確かめてから幕府へ報告をした。
こうして、幕府は松前氏の一族で旗本の松前八左衛門泰広に出陣を命じ、弘前藩に
も出兵を命じるとともに盛岡藩・秋田藩にも松前藩から要請があり次第出兵するように命じた。
幕府がアイヌ民族の蜂起に直接指揮をとったのはこれが最初であった


   当時の松前藩の和人人口は約1万5千人、うち家臣団は80余名。

     これに対してアイヌの人口は2万余人とみられていた。
 

(写真は、アイヌの皿敷)

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アイヌ民族の蜂起 30

 シャクシャインの戦い(4)

  アイヌは和人船の襲撃によって食料は確保したが、武器となる鉄砲や刀は
わずかなものであった。松前藩はアイヌに武器を渡すのを禁じていたのである。
アイヌは戦うための武器が必要だった。
これは松前藩も同じことがいえた。
武器の調達が勝敗を分ける戦でもあった。
 襲撃された和人は一人残らず殺されてしまったが、この様子を見ていたアイヌ
の中に松前藩に味方するものがでてきたのである。

 有珠虻田のアイヌが、松前に走ったのである。
これが寛文9年(1669年)6月21日のことであった。
報を聞いた松前藩藩主は、11歳の松前矩広(松前10代目)であった。
家老の蛎崎蔵人と蛎崎広隆。
奉行役の蛎崎作左衛門、松前儀左衛門、佐藤権左衛門。
国縫は内浦湾の中間地点で松前から4日路であった。
国縫の地には砂金の採掘小屋があり、内地からの人夫も大勢いたので防禦に
好都合であった。
 
 6月23日、蛎崎作左衛門が80人ほどを引き連れて出発。
その後新田瀬兵衛ら100人。
更に金掘り人夫ら345人を送った。
 6月末には、国縫には525人の体制となっていた。
 
(写真は、アイヌの太鼓とバチ) 

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アイヌ民族の蜂起 29

 シャクシャインの戦い(3)

  シャクシャインを首長とするアイヌ民族蜂起は松前藩(和人)とアイヌ民族の
交易における差別と誤魔化しが不満として積み重ねられていた。
しかし、その不満の導火線に引火したのは、松前藩が加担していた首長オナビシ
と、独自のアイヌ文化を主張するシャクシャインとの漁労権争いだった。
 
 静内町は北海道の東の文化と西の文化の接点ともいえる地域で、静内川上流
から西方のシュムンクルと同川下流から東方のメナシウンクル両集団の接点でも
あった。
シュムンクルに属するハエの首長オニビシとメナシウンクルの首長カモクタイン、
そしてその死後跡を継いだシャクシャインとは漁労権を巡り抗争を続けていた。

 両者の争いは松前藩を仲介に一度は停戦となりましたが、その後再発し、オニビシ
が殺された。その姉婿ウタフが松前藩に援助を要請に赴いた帰りに病死すると、
シャクシャインはそれを松前藩による毒殺とアイヌに伝えたことから、アイヌと和人との
抗争へと発展したのである。
 
(写真は、蝦夷地の地図)

2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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