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- 2011/11/27 明治36年 藤村 操<華厳滝の自殺>
- 2011/11/26 北海道の歴史(年表) 明治36年
- 2011/11/25 明治35年 <宗谷岬の旧海軍望楼跡>
- 2011/11/24 北海道の歴史(年表) 明治35年
- 2011/11/23 北海道の歴史(年表) 明治34年
- 2011/11/22 北海道の歴史(年表) 明治33年
- 2011/11/21 北海道の歴史(年表) 明治32年
- 2011/11/20 明治31年 <軍事と切り離せない旭川の鉄道史>
- 2011/11/19 明治31年 <トラピスト修道院>
- 2011/11/18 北海道の歴史(年表) 明治31年
2011/11/27 00:59:15
藤村 操<華厳滝の自殺> | ||||||
1886年7月 – 1903年5月22日 | ||||||
北海道出身の旧制一高の学生。華厳の滝で投身自殺した。自殺現場に残した | ||||||
遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。 | ||||||
祖父の藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治 | ||||||
維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。操は、明治19年に北海道で | ||||||
胖の長男として生まれ、12歳の札幌中学入学直後まで北海道で過ごした。 | ||||||
父の藤村胖は、屯田銀行頭取である。 | ||||||
厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の | ||||||
社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保 | ||||||
護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で | ||||||
自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)。 | ||||||
華厳の滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである。 |
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2011/11/26 00:57:41
1903年(明治36年) | ||||||||
1月24日 | 夏目金之助、イギリス留学より帰り東京着 | |||||||
3月28日 | 日本初のビアガーデン隅田吾妻橋に開設 | |||||||
4月1日 | 東京に山手線(池袋―田端間)が開通 | |||||||
4月10日 | 小学校教科書国定となる | |||||||
5月22日 | 一高生・藤村操が『巌頭の感』を遺し、日光の華厳の滝に投身自殺 | |||||||
6月15日 | ヘンリー・フォード、自動車会社を設立 | |||||||
8月22日 | 東京に初の市街電車走る | |||||||
8月25日 | 明治法律学校を明治大学と改称 | |||||||
10月1日 | 浅草電気館開場(初の映画常設館) | |||||||
10月29日 | 東海丸の遭難 | |||||||
11月21日 | 第一回早慶対抗野球試合開催(11対9で慶応の勝) | |||||||
12月17日 | ライト兄弟、人類初の公開飛行 | |||||||
12月28日 | 連合艦隊編制、司令長官は東郷平八郎 | |||||||
※ | 北海道全域に衆議院議員選挙法が施行される | |||||||
※ | 小樽銀行が北海道商業銀行を吸収合併、北海道銀行と改名 | |||||||
※ | 静内 二十間道路できる | |||||||
※ | 内閣総理大臣 桂太郎 (明治34年6月2日~明治39年1月7日) |
2011/11/23 00:51:59
1901年(明治34年) |
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1月1日 | 私立北鎮尋常高等小学校として設立 旧第七師団私設教育所として開設 | ||||||||
2月3日 | 福沢諭吉死去(享年68歳) | ||||||||
4月20日 | 東京の日本女子大学開校式(校長成瀬仁蔵、来賓渋沢栄一、大隈重信、ケーベル等の祝辞あり) | ||||||||
4月 | 阿寒小学校の前身、舌辛簡易教育所として開設 | ||||||||
5月2日 | 伊藤首相、財政をめぐる閣内不統一により辞表提出 | ||||||||
6月2日 | 第一次桂太郎内閣設立 | ||||||||
7月 | 近文第5尋常小学校設立 | ||||||||
10月23日 | 田中正造、足尾鉱毒事件で衆議院議員を辞職 | ||||||||
11月18日 | 官営八幡製鉄所、作業開始 | ||||||||
12月10日 | 議会開院式還幸の御途、前代議士田中正造、足尾銅山鉱毒事件の直訴を行う | ||||||||
12月27日 | 学生の鉱毒地視察、906名参加 | ||||||||
12月29日 | 食堂車が東海道線急行列車に登場 | ||||||||
※ | 京極小学杖の前身開設。 | ||||||||
※ | 札幌の3新聞が合同して北海タイムスを創刊する | ||||||||
内閣総理大臣 伊藤博文(明治33年10月19日~明治34年5月10日) | |||||||||
西園寺公望(明治34年5月10日~明治34年6月2日) *臨時兼任 | |||||||||
桂 太郎 (明治34年6月2日~明治39年1月7日) |
2011/11/22 00:50:28
1900年(明治33年) |
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3月10日 | 治安警察法公布 | ||||||||||
4月30日 | 『軍艦マーチ』演奏される | ||||||||||
7月26日 | 津田梅子、女子英学塾を創立 | ||||||||||
7月26日 | 清の孫文、日本に亡命 | ||||||||||
9月14日 | 女子英学塾(津田塾大学)開校 | ||||||||||
9月15日 | 立憲政友会発会式挙行(伊藤博文を総裁とする) | ||||||||||
9月15日 | 岡山第六高等学校(岡山大学)の開校式 | ||||||||||
9月26日 | 山県内閣総辞職 | ||||||||||
10月19日 | 第四次伊藤内閣成立 (明治33年10月19日~明治34年5月10日) | ||||||||||
※ | エゾシカ絶滅の危機が回避されたので、捕獲禁止が解除されました。 | ||||||||||
※ | 北海道拓殖銀行の創立総会を開く | ||||||||||
※ | 現下川町に岐阜県郡上郡高鷲村(現郡上市)から25戸の開拓団が集団移住した。 |
2011/11/21 00:48:17
1899年(明治32年) |
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1月19日 | 勝海舟、77歳でこの世を去る | ||||||||||
4月4日 | 東京に音楽、外国語学校開校 | ||||||||||
7月4日 | ビヤホール初めてあらわれる | ||||||||||
9月15日 | 函館の大火(約2000戸焼失) | ||||||||||
12月16日 | 年賀郵便特別扱い始まる | ||||||||||
※ | 区制施行。札幌区となる。区とは市よりも小さく町よりも大きな自治体である。 | ||||||||||
札幌区以外に道内には他に函館区と小樽区があった | |||||||||||
初代区長 対馬嘉三郎就任(明治32年12月~明治35年5月) | |||||||||||
※ | 現小樽市の田中酒造店株式会社創業(現在まで営業を続ける酒造店です) | ||||||||||
※ | 上砂川地区に福井県鶉村から来た開拓者・山内甚之助氏他8名によって、この地に鍬が | ||||||||||
入れられたのが発祥。 | |||||||||||
※ | 苫小牧から静内までの国道が開設 | ||||||||||
※ | 「北海道旧土人法」成立。農業に従事する旧土人には土地を無償で与える。 | ||||||||||
旧土人の部落には国費で小学校を設置する。 |
2011/11/20 00:52:24
<軍事と切り離せない旭川の鉄道史> |
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旭川は軍都であると同時に鉄道のマチでもありました。 | ||||||
明治31年に上川線(現函館線)が旭川まで開通したのを皮切りに、明治 | ||||||
33年には十勝線(後の釧路線・根室線・現富良野線)が富良野まで開通。 | ||||||
明治36年には天塩線(現宗谷線)が名寄まで達し、少し遅れて大正11年 | ||||||
に石北線が愛別、翌12年には上川まで開通。 | ||||||
とにかく現在では考えられないような矢継ぎ早に鉄道網が構築されています | ||||||
明治政府は何故こうまでこの地の鉄道建設を急いだのでしょうか? | ||||||
これらは明らかに第七師団の建設と連動していました。旭川で第七師団の建 | ||||||
設工事が始まったのは明治32年の事ですから、つまり旭川を中心とする鉄 | ||||||
路整備は全てこの師団の建設と前後しています。 | ||||||
師団の建設は上川線(函館線)の開通を待っていたように始められました。 | ||||||
膨大な量の建設資材を運ぶための引込み線(鷹栖線、大町岐線)がこの翌年 | ||||||
に敷かれています。さらに師団建設と平行して道東路線である十勝線、道北 | ||||||
路線である天塩線にも着手し、明治35年の師団完成時にはいずれも部分開 | ||||||
通を実現しています。 | ||||||
これらの鉄道路線が当時の対ロシア防衛と深い関わりを持っていた事は明白 | ||||||
です。つまりロシアが千島ルートを使って侵攻した場合、樺太ルートを使っ | ||||||
て侵攻した場合、いずれの場合にも第七師団を速やかに対処可能にするため | ||||||
の移動手段だったのです。 |
2011/11/19 00:50:47
<トラピスト修道院> | ||||||
トラピスト修道院はカトリックの修道会の一つである厳津シトー会(トラ | ||||||
ピスト会)の修道院で、日本では主に北海道北斗市三ツ石(渡島当別)に | ||||||
所在する「灯台の聖母トラピスト大修道院」の通称となっている。信徒 | ||||||
により函館郊外、当別の原野が寄進され、明治29年10月末には9名の修道 | ||||||
士の来日をみた。 | ||||||
明治30年1月、ノルマンディー地方にあるブリックベック修道院の副院長 | ||||||
であるジェラール・プゥイエ師が、修道院長として来日し、当別に着任。 | ||||||
●明治31年4月30日には、函館湯川に「女子トラピスト修道院天使園」 | ||||||
が創立される。昭和10年の総会で、灯台の聖母修道院は大修道院に昇格さ | ||||||
れる。 | ||||||
現在、当別修道院の他、男子修道院としては昭和55年大分県 速見郡日出 | ||||||
町に開設された『お告げの聖母修道院』を、また女子修道院は国内に四カ | ||||||
所、海外(韓国)に一カ所を子院として持ち、会員は「祈り働け」をモッ | ||||||
トーに、各修道院にて労働と祈りの日々を送っている。 | ||||||
童謡『赤とんぼ』の作詞者として知られている詩人の三木露風は30代の初 | ||||||
めの頃、プゥイエ院長の招きで当院の文学概論、美学論などの講師として | ||||||
夫人とともに4年間を当別で過ごし、その間に夫婦で受洗してカトリック | ||||||
信者となった。また、男爵イモの開発者として知られる川田龍吉爵も、そ | ||||||
の晩年に当別教会にて、D.ベネディクト大修道院長によって洗礼を授けら | ||||||
れた。 |
2011/11/18 00:42:03
1898年(明治31年) | ||||||||||
1月12日 | 伊藤博文、第三次内閣成立 | |||||||||
4月30日 | トラピスト女子修道院修道院、北海道亀田郡上湯川に創立 | |||||||||
6月22日 | 自由・進歩両党合同し、憲政党結党式(板垣退助総理) | |||||||||
6月25日 | 伊藤内閣総辞職 | |||||||||
6月30日 | 最初の政党内閣成立(大隈重信、憲政党内閣の首相として組閣) | |||||||||
8月21日 | 北海道旭川鉄道開通式 | |||||||||
10月31日 | 大隈重信内閣、総辞職 | |||||||||
11月8日 | 第二次山県有朋内閣成立 | |||||||||
11月29日 | 徳富濾花の「不如帰」連載始まる。 | |||||||||
12月18日 | 西郷隆盛銅像除幕式 | |||||||||
※ | 常呂村に岐阜団体が入植 | |||||||||
※ | 屯田銀行が小樽に移転、北海道商業銀行と改名 | |||||||||
内閣総理大臣 松方正義 (明治29年9月18日~明治31年1月12日) | ||||||||||
伊藤博文 (明治31年1月12日~明治31年6月30日) | ||||||||||
大隈重信 (明治31年6月30日~明治31年11月8日) | ||||||||||
山県有朋 (明治31年11月8日~明治33年10月19日) |