2011/11/17 00:09:44
<京極町の開拓・京極高徳> |
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明治30年、現在の京極町の地域に土地の貸付が出願されました。 | ||||||
出願人は京極高徳でした。その大きさは全部で240万坪。広大な土地を貸 | ||||||
付ることになったのは、すでに開設されていた京極第一農場に次ぐ農場設 | ||||||
置のためでした。京極高徳は、現在の香川県旧丸亀藩主。明治17年に子爵 | ||||||
になっている人物です。彼は藩主家やそれに関係する人々のために、農場 | ||||||
経営を拡大しようとしていたのです。 | ||||||
高徳は、旧臣・児玉忠広を調査員として派遣します。 | ||||||
児玉は当時、官の仕事についていましたが、旧主の指名により北海道庁属 | ||||||
となり、道内の土地をつぶさに調べました。そして、現在の美唄とワッカ | ||||||
タサップと呼ばれていた京極町のあたりを選定し、京極家に上申します。 | ||||||
これをうけて、京極高徳はワッカタサップを農場にする計画を立て、すぐ | ||||||
に貸付を出願しました。そして、児玉忠広に管理人を命じました。 | ||||||
児玉は、まず道路の開削から始め、尻別川までの間に道路を開き、川を渡 | ||||||
って農場事務所を設置しました。そして、最初の入植者たちを募ります。 | ||||||
明治31年3月、第1回目の小作者を石川県から入地させました。第2回 | ||||||
目と3回目の入植者は、石川県と富山県から募りました。明治40には、120 | ||||||
戸の小作人が京極農場で働いていました。 | ||||||
この後、京極農場は神社、寺院の建立や学校、郵便局の設立などを行って | ||||||
いき、人々の生活基盤を整えて行きます。大正8年には鉄道が開通し、駅名を京極と | ||||||
しました。昭和12年、農地解放により、京極農場の役目は狩猟しました。 | ||||||
昭和15年村の名前を京極村として、京極家と農場の歴史を永遠に刻み込みました。 |
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2011/11/16 00:07:56
訓子府町開拓 北光社移民団・高知県 |
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明治30年5月、訓子府町と北見市に高知県からの開拓者が入植。 |
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この開拓者が「北光社移民団」です。 北光社社長は、坂本龍馬の甥になる坂本直寛で、移民団は、約110戸と言われております。 |
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坂本直寛 |
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直寛は1896年(明治29年)北海道・北見開拓の視察をする途中、 浦臼(うらうす)の聖園農場に立ち寄り北見地方開拓の協力を求めました。 |
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この事により浦臼町との関係が始まります。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ここには同じ高知出身でキリスト教を信仰する武市安哉(あんさい) (自由民権運動者・代議士)が、信仰と教育による理想農園を作ろうと入植し |
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たものの2年前の12月2日に青函連絡船にて脳溢血のため急死していました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2011/11/15 00:06:04
<豊頃開拓の祖 二宮尊親> |
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興復社二宮農場の創設者二宮尊親は、二宮尊徳の孫として、安政2年 | ||||||
11月16日、現在の栃木県今市市に誕生。明治29年興復社再建の | ||||||
ために北海道開拓を決意し、社員等4名とともに渡道。 | ||||||
明治30年牛首別興復社の設立認可を受け、3月3日第一期移住民1 | ||||||
5戸を引率し、4月8日牛首別原野に到着。この年郷里から家族を呼 | ||||||
び寄せ、茂岩に居住することとなった。以来明治31年第二期入植者 | ||||||
23戸、明治32年第三期入植者14戸、明治33年51戸、明治3 | ||||||
4年14戸と続いて入植し、尊親自ら陣頭に立って寝食を忘れて指導 | ||||||
に当たった。明治40年入植以来10年にして開拓の方向も定まり、 | ||||||
各農家も経営の安定を見るに至ったので、福島県中村に転住。その後 | ||||||
は年に数回実情の把握および指導のため現地入りしたのである。 | ||||||
この間、十勝にあっては農会長、学事会員、その他の公職に推され、依田 | ||||||
勉三、関寛斎らが尊親を訪れたこともあった。郷里に帰った後も、尊徳遺稿 | ||||||
一万冊の整理、「二宮尊徳遺稿」の編集著作に専心する傍ら、農業関係、金 | ||||||
融関係、教育関係の公職及び実務に当たり、現西宮市報徳学園の二代目校長 | ||||||
などを務め、大正11年11月東京において68歳で病死した。 |
2011/11/14 09:05:04
<北海道国有未開地処分法> |
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明治30年の「北海道国有未開地処分法」は、本州の資本家に100万ha | ||||||
以上の大面積を無償で提供するというもので、成功の検査も曖昧なもの | ||||||
でした。「開墾もしくは植樹に供せんとする土地は無償にて貸付し、全 | ||||||
部成功の後、無償にて付与」するというもので、一人に対する面積も開 | ||||||
墾用としては500町歩、牧畜用には833町歩、植樹には666町歩と大き | ||||||
なものでした。多分に投機目的で貸付を受けたものも多く、処分面積の | ||||||
大きさの割には未開地を残していました。 | ||||||
この結果、大農場の建設が相次ぐこととなり、北海道の不在巨大地主制 | ||||||
を決定づけることにもなりました。明治末には全国一の小作地帯になっ | ||||||
てしまい、多くの小作争議を生むことになります。 | ||||||
このあたりの状況は、小林多喜二の小説『不在地主』に詳しく描かれて | ||||||
います。多くの不在地主が無償で得た土地を小作人に売り逃げする中で、 | ||||||
作家でありキリスト教徒であった有島武郎は父から譲り受けた有島農 | ||||||
場(ニセコ町)を無料で開放しています。 |
2011/11/13 08:19:18
1897年(明治30年) | |||||||||
1月15日 | 俳句雑誌「ほとゝぎす」創刊 | ||||||||
3月3日 | 十勝の現豊頃町に二宮尊親(二宮尊徳の孫)が福島県から興復社一行を率いて二宮地区 | ||||||||
に入植。 | |||||||||
5月29日 | 北海道に区制・一級・二級町村制公布 | ||||||||
5月 | 野付牛村は坂本竜馬の甥、坂本直寛が率いる高知県の移民団、北光社が入地、同年6月と | ||||||||
翌31年9月には屯田歩兵第4大隊が入地、開拓の主力となる。 | |||||||||
6月18日 | 京都帝国大学設立 | ||||||||
6月22日 | 京都帝国大学の設立に伴い、既存の帝国大学を東京帝国大学と改称する | ||||||||
8月29日 | 島崎藤村「若菜集」刊行 | ||||||||
10月 | 岩見沢に空知支庁が設置され、同33年7月1級町村制による岩見澤村となり人口も12,518人 | ||||||||
村勢は急速に伸展。 | |||||||||
※ | 上富良野町は三重県から入植、初めて開拓の手が入り富良野村が設置。 | ||||||||
※ | 余市銀行が小樽に移転、小樽銀行と改名。 | ||||||||
※ | 子爵京極高徳、倶知安村ワッカタサップ番外地に未開地約800haの貸付を許可され、児玉 | ||||||||
忠廣を管理人とし、洞爺から藤村徳治ら5戸を招き開拓に着手。(京極町開拓の始まり) | |||||||||
※ | 北海道国有未開地処分法 |
2011/11/12 00:24:29
<第7師団> | ||||||
第7師団(だいしちしだん)は大日本帝国陸軍の師団の一つ。 | ||||||
上川離宮と並び旭川の原点と呼べるのが陸軍第七師団です。 | ||||||
第7師団は明治18年に北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された屯田兵を母 | ||||||
体とし明治29年に編成された。 | ||||||
明治維新後の日本がまず直接的に脅威だったのが当時の帝政ロシア、樺太千 | ||||||
島交換条約で北の国境は画定されていたものの、ロシアはその後も強大な軍事力を背 | ||||||
景に清国や朝鮮半島に触手を延ばし、黙っていれば大半が未開の地であった北海道へ | ||||||
の南下も明らかでした。 | ||||||
ロシアが北海道に上陸侵攻するとすれば大きく2つのルートが考えられまし | ||||||
た。海軍力を背景にした樺太ルートと千島ルートです。北海道内から見れば地理的に | ||||||
正反対ともいえるこの両方のルートいずれにも対処するには、両側から均等 | ||||||
の距離、つまり北海道のど真ん中に軍事処点を置くのが良いわけで、沿岸部からできる | ||||||
だけ距離を置く必要性からも上川は理想的な地形と位置にありました。 | ||||||
開拓に当たっては屯田兵という一石二鳥の手法を採ったのです。 | ||||||
師団編成地を札幌に置き北海道と東北の兵で構成された。初代師団長は薩 | ||||||
摩出身の永山武四郎少将→中将で、第二代(1900<明治33>~190 | ||||||
6<明治39>年)が同じく薩摩の大迫尚敏中将だ。大迫が率いて日露戦争 | ||||||
に出征することになる。 |
2011/11/10 08:44:15
1895年(明治28年) | ||||||||||
3月3日 | 正岡子規、日清戦争従軍記者として東京を出発する | |||||||||
3月23日 | 日本軍、台湾澎湖島を占領 | |||||||||
4月1日 | 学制改正に際し修業年限三ヵ年の尋常科となり、名称○○尋常小学校。 | |||||||||
4月17日 | 日清講和条約に調印(全権伊藤博文、陸奥宗光、清国全権李鴻章) | |||||||||
4月23日 | 三国干渉(日清講和条約に対し、独・仏・露、遼東半島を清国に返還勧告) | |||||||||
6月7日 | 日本軍、台北を占領 | |||||||||
9月18日 | 住友銀行設立 | |||||||||
※ | · 北海道アイヌの代表が上京して、土人保護法案を請願する | |||||||||
※ | · 日清戦争に際して、北海道全道から多数の軍馬を献納する | |||||||||
※ | 渡島・後志・胆振・石狩の4国に徴兵令を施行する | |||||||||
※ | 奈江村より奈井江独立戸長役場を設立、12月には奈井江炭坑が発見され試掘が始まった。 | |||||||||
※ | 現比布(ぴっぷ)町は滋賀、香川、愛媛の各県から比布原野に入植。 | |||||||||
※ | 現中富良野町は,伊藤喜太郎が入植。開基の年としている。 | |||||||||
※ | 現秩父別町は明治28、29年に計400戸の屯田兵とその家族による入植によって築かれた |
2011/11/10 08:21:45
1896年(明治29年) | ||||||||
4月6日 | アテネで第1回オリンピック開催 | |||||||
4月14日 | 自由党総理板垣退助内相に就任 | |||||||
4月19日 | 乃木希典第二師団長、東京に凱旋 | |||||||
6月15日 | 午後8時半、三陸地方に大津波(死者2万7122人、流出・破壊1万390戸) | |||||||
7月16日 | 佐渡、生野両鉱山払い下げとなる | |||||||
8月26日 | 函館の大火(約2220戸焼失) | |||||||
8月28日 | 伊藤首相、閣内不統一により辞表提出 | |||||||
9月18日 | 松方正義、首相兼蔵相に就任(第二次松方内閣成立) | |||||||
11月9日 | 台湾総督乃木希典、台北に到着 | |||||||
11月15日 | 豊田佐吉、自動織機を発明する | |||||||
12月1日 | 初めて映画の一般公開 | |||||||
※ | 北海道に第七師団を設け、旭川に師団司令部をおく | |||||||
「北海道鉄道敷設法」公布 |
2011/11/08 00:18:42
1894年(明治27年) | |||||||||||
6月9日 | 大鳥圭介、陸戦隊を率いて仁川に上陸(清国、日本軍出兵に警告を発す) | ||||||||||
6月20日 | 東京地方大地震(倒潰家屋90、破損約1832戸、死者24名) | ||||||||||
7月12日 | 駐清英国公使、日清間の国交周旋に努むるも、清国これを容れず国交悪化する | ||||||||||
7月16日 | 日英通商航海条約調印 | ||||||||||
7月16日 | 陸軍省、日清戦争で初の戦死者が出たと発表(野間田若松一等兵、戦死者第一号) | ||||||||||
7月25日 | 豊島沖で日本艦隊、清国艦を攻撃 | ||||||||||
7月25日 | 東郷平八郎艦長の指揮する巡洋艦浪速がイギリス商船高陞号を撃沈する(高陞号事件) | ||||||||||
8月1日 | 清国に宣戦布告(日清戦争) | ||||||||||
10月5日 | 広島県宇品港を軍用港と定める | ||||||||||
11月22日 | 日米通商航海条約締結調印 | ||||||||||
※ | 室蘭港が特別輸出港に指定される | ||||||||||
※ | 小樽港がロシア・朝鮮貿易のため船舶出入港として指定される | ||||||||||
※ | 現沼田町は富山県出身の沼田喜三郎が郷里から18戸の移住を図る。町名の由来は町開拓 | ||||||||||
の功労者沼田喜三郎の姓による。 | |||||||||||
※ | 現北村は、山梨県に本拠を構える北村雄治氏が土地の貸し下げを受け北村農場を開設し、 | ||||||||||
地名を開拓功労者の姓をもって北村とした。 | |||||||||||
※ | 囚人使役が廃止。これに換わってタコ部屋労働者が使用された。 | ||||||||||
※ | 余市に余市銀行(後に小樽銀行)設立 |