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- 2011/03/10 ノモンハン事件を描いた作品
- 2011/03/09 第二次ノモンハン事件「両軍が得た軍事的教訓 」
- 2011/03/08 第二次ノモンハン事件「陣前に張られたピアノ線に履帯を絡めとられた」
- 2011/03/07 第二次ノモンハン事件「地雷工兵と火炎瓶部隊が加わった」
- 2011/03/06 第二次ノモンハン事件「ソ連軍戦車の長砲身の45mm砲」
- 2011/03/05 第二次ノモンハン事件「対戦車戦闘」
- 2011/03/04 第二次ノモンハン事件「隠蔽歩兵の有効性と限界」
- 2011/03/03 ノモンハン事件の戦略と戦術「兵力の集中と兵站」
- 2011/03/02 第二次ノモンハン事件 「停戦協定が成立したのは9月15日」
- 2011/03/01 第二次ノモンハン事件 「高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTB」
北方領土問題 84
ノモンハン事件 26
第二次ノモンハン事件
両軍が得た軍事的教訓
両軍とも、ノモンハン事件を局地戦とみなした。
ソ連は、ノモンハンでの勝因を押し広げようとしなかった。
ソ連軍の兵站組織は旧態依然で、量的にも不十分であった。戦車は歩兵支援のために分散され、戦略的規模で用いる機動打撃軍は作られなかった。
ソ連軍は、むしろ1939年のソ連・フィンランド戦争から、陣地防御への信頼を強めた。
1941年1月にジューコフが参謀総長になっても、目立った改革は起きず、赤軍は独ソ戦初期に壊滅的損害を被った。
日本は、軍部の威信低下を避けるため、国内に対して敗北を隠し、新聞はノモンハンでの日本軍の圧勝を報じた。
また、軍内部においては敗北の責任を参加将兵の無能と臆病、および政府の非協力に帰し、参加将兵に緘口令をしいた。一般の日本人が敗北の事実を知ったのは、戦後になってからだった。
陸軍はノモンハン戦後に「ノモンハン事件研究委員会」を組織しその敗戦の要因を研究したが、装備の劣勢や補給能力の低さを認識したものの抜本的なドクトリンの改革には結びつけず、“軍の伝統たる精神威力の更なる鍛錬を”と精神論に堕した。
太平洋戦争後半において新型の中戦車開発に経験は活かされたものの、生産も投入も間に合わず、また戦車の対戦車性能を改善する教訓も十分に生かされず、結果として第二次大戦末期に至るまで旧式な装備を使用する事となり連合軍戦車・対戦車装備との陸上戦で苦戦する一因となった。
反面、日本陸軍の航空機・装備開発や運用面では大きな影響を与えた。
防弾装備(防弾鋼板、防漏燃料タンク、風防防弾ガラス)の研究・装備、無線装備(無線電話)の質向上と効果的利用、単機空戦から編隊空戦への移行・強化、飛行戦隊(独立飛行中隊)と飛行場大隊(飛行場中隊)の空地分離など、陸軍航空の更なる近代化を重視する考えが内部に生まれた。
また、将来は陸軍航空隊の中核幹部となる若手将校・下士官らベテラン・パイロットを多数失ったことは、陸軍戦闘機隊の崩壊さえ招きかねない事態と危惧され、下士官からの叩き上げパイロットへの陸軍航空士官学校における部隊指揮官教育を経ての将校登用(少尉候補者制度)を積極的に進め、さらに少年飛行兵の募集を強化するなど、海軍に先駆けて航空戦力の拡充を図る端緒となった。
九七戦がソ連軍機に対してその旋回性能が最後まで強力な切り札だったことから、陸軍航空隊では格闘戦重視の軽戦闘機が主流となったが、一方で高速重武装(重戦闘機)へと発展を遂げている世界情勢もノモンハンでの戦訓と相まり強く認識され、太平洋戦争開戦に至るまで卓上では最後まで結論は出なかった。
そのため運動性重視の軽戦一式戦「隼」と、速度と武装重視の重戦二式単戦「鐘馗」の二つの単座戦闘機がほぼ同時期に採用・実用化され、のちにバランスの取れた四式戦「疾風」へと進化した。
北方領土問題 83
ノモンハン事件 25
第二次ノモンハン事件
他兵科との協同を軽視したのは日本軍戦車部隊も同様であった。7月3日に敵陣地に対する正面攻撃を実施した戦車第3連隊は、陣前に張られたピアノ線に履帯を絡めとられた。
装甲が薄い日本戦車は被弾すれば必ず撃破されるため、敵前での停止は致命的であった。
大損害を受けてから歩兵との協同行動の必要を認識したが、ノモンハンで再戦する機会は来なかった。
ソ連軍で最も損害の大きかった部隊は第11戦車旅団であった。
緒戦よりBT-5で戦闘に参加し大きな損害を出し、7月23日~8月28日の間にBT-7を155輌供給されていた。8月20日にはBT-5やBT-7など154輌で戦闘に参加、しかし続発する損害や故障に修理や補給が追いつかず、30日には稼働38輌・死傷者349名と、再び壊滅状態に陥っている。
戦後、ノモンハン従軍の元日本兵に日本のTV局が番組取材で収録した記録によると、ソ連戦車には乗員ハッチ外側から南京錠による施錠がなされていたとの証言がある。
逃亡を防ぐ目的及び督戦のための処置ではないかとの証言であった。
ハッチが外側から施錠されているため戦車が撃破された場合乗員は脱出できず、脱出していれば助かったであろう命が失われたことになる。
ノモンハン事件 24
第二次ノモンハン事件
日本の戦車は、比較的装甲の薄いソ連戦車との戦闘でさえも質・量ともに苦戦を強いられた。数ではソ連軍が500両以上の戦車を投入したのに対して、日本は中戦車38両と軽戦車(九五式軽戦車)35両の73両(他に装甲車が約20両)を投入したに過ぎず、また戦車部隊が戦闘に参加した期間は、実質的には7月2日夜から6日までに過ぎなかったが、このわずか4日間で、73両の戦車のうち30両近くが撃破された。
関東軍中央は大きな損害を受けた戦車部隊を撤退させたが、これはさらに戦車を失うことで、もともと少ない戦車部隊の拡充が困難になることを恐れてのことであった。戦車部隊の撤退によって、現地部隊はますます歩兵による戦車攻撃に依存せざるをえなくなる結果となったが、多くの敵戦車を対戦車砲や野砲で撃破した。
ノモンハンの戦場では、張鼓峰に引き続き、日本の歩兵とソ連の戦車との間で対戦車戦闘が繰り広げられた。日本軍歩兵は戦車に対して対戦車砲の待ち伏せで対応、さらに地雷工兵と火炎瓶部隊が加わった。
発火性の強いガソリンエンジンを装備するソ連戦車は、火炎瓶攻撃の前にたやすく炎上した。ただしソ連崩壊後に公開された資料により、地雷や対戦車砲で行動不能になった状態で炎上させられた物は多いが、機動力を失わない状態で撃破された物はごく少ない(対戦車砲による損害が75~80%なのに対し、火炎瓶によるものは5~10%)ことが判明している。
しかしソ連戦車隊は後に戦闘隊形を変更、前衛の戦車を後衛が支援する戦術で地雷工兵や火炎瓶攻撃を封殺、その成功率を激減させた。なお昔から日本語の資料では「機関部の周囲に金網を張って火炎瓶避けにしたり、発火性の低いディーゼルエンジン装備の戦車を配備すると、効果がなくなった」などと記述されているが、過去・近年のソ連・ロシア側からの研究ではこういったことは全く記述されていない。またBT自体もより詳しく考証され、ディーゼル型のBT-7M(後にBT-8)はノモンハン事件より後の12月から軍に引き渡されたことが記録されているなど、時期的にも否定的な要因が多い。
北方領土問題 81
ノモンハン事件 23
第二次ノモンハン事件
意外なことにノモンハンの戦場で最も厚い装甲をもっていたのは、日本軍の4両の九七式中戦車(最大装甲厚25mm)であった。ただし、対戦車戦闘をまったく考慮していない八九式中戦車と九七式中戦車の短砲身57mm砲の装甲貫徹力は、ソ連軍戦車の長砲身の45mm砲に大きく劣った(しかも歩兵直協を旨とする日本戦車に搭載された徹甲弾の数は少なく、また冶金技術の後れから徹甲弾の強度も劣っていた)。
実際に戦車第3連隊長吉丸大佐は、当時最新の九七式中戦車でこの戦いに参加したが、7月3日にBT-5の砲撃により撃破され、戦死している。しかし一方、射撃の腕は訓練をつんだ日本兵の方が優れ、小隊単位で砲撃し、たとえ装甲を貫徹できなくてもBTやT-26の機関部付近を狙撃、ガソリンタンクに引火させ撃破するなど、かなり健闘している。また8mmの装甲しか持たない装輪装甲車は虚弱で、しかもタイプによっては乗員の頭上にガソリンタンクがあるという構造的欠陥もあり、7.7mm重機関銃の徹甲弾の集中射撃や九二式十三粍車載機関砲の13.2mm弾でも撃破可能であった。
北方領土問題 80
ノモンハン事件 22
第二次ノモンハン事件
対戦車戦闘
第一次世界大戦で、戦車は塹壕を突破して膠着状態の戦局を打開するために登場したが、第二次世界大戦では防御陣地に不用意に近づかないことが戦車戦術の常道となった。ノモンハンの経験はこれを先取りするものであった。
1939年当時のソ連軍は、T-34やKV-1のような装甲の厚い戦車を未だ保有せず、高速だが装甲の薄いBT-5(正面装甲厚13mm)やBT-7(同15~20mm)、T-26軽戦車(同15mm)、FAI、BA-3、BA-6、BA-10、BA-20(以上、同6~13mm)といった装輪装甲車を多数投入した。
その装甲は日本軍が持つ火砲でも撃ち抜けるレベルで、実際にソ連軍の報告書では「日本軍の九四式37mm速射砲は十分な威力を発揮した」という内容が記述されている。
それによると、他にも各種の75mm野砲や九八式20mm高射機関砲も対戦車戦闘に参加、威力を発揮したという。(九八式20mm高射機関砲を装備した部隊がノモンハンに投入されたという日本側の記録は無い。おそらく、類似した構造の九七式自動砲と思われる。)
北方領土問題 79
ノモンハン事件 21
第二次ノモンハン事件
隠蔽歩兵の有効性と限界
ノモンハンの戦場は丈の低い草原と砂地で、防御側を利する地形要素は何もなかった。
ハルハ河西岸(ソ連側)は、日本側より標高が高かった。
それでも、日本の歩兵はタコ壺を掘って身を隠し、砲兵はごく緩い稜線を利用して身を隠せそうな陣地を作った。
こうした間に合わせの防御に対し、ソ連軍は一気に蹂躙すべく戦車だけ、あるいは戦車と歩兵で繰り返し攻撃をかけた。これは、地形と装備差から予想されるような一方的殺戮にならなかった。防御側の損害も大きかったが、歩兵の肉薄攻撃で多数の戦車が破壊され、攻撃側の損害も大きかった。
しかし、日本軍部隊が何らかの活発な行動を起こすと、高地に位置するソ連砲兵の良い標的になった。8月下旬の戦闘では、日本側が陣地から出て反撃を試みた際に、かえって大きな打撃を被る事となった。こうした状態で補給を受けることは極めて困難で、部隊は持久できなかった。北の夏の短い夜の間だけが、日本軍の行動にいくばくかの安全を与え、夜襲と撤退の機会を与えた。
ノモンハン事件 20
第二次ノモンハン事件
ノモンハン事件の戦略と戦術
兵力の集中と兵站
ソ連軍司令官のジューコフは、この戦いで兵站上の革新を成し遂げた。
19世紀後半から1939年までの陸軍の兵站線は鉄道を主体とするものであり、鉄道と港湾を離れて大軍を運用することはきわめて困難とされていた。
鉄道輸送は戦線の遙か後方にあるザバイカルのソロビヨフスコエ駅までしかできず、そこから後方基地までトラック輸送し、更に前線まで650-750kmに渡る長大な兵站線が必要であった。舗装道路なき平原で、未熟な運転手が道に迷うなどトラブルも多かったが、大規模自動車輸送によって8月までに大量の物資を蓄積したことで、第二次ノモンハン事件の前に十分な戦力を準備できた。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたがノモンハンでは例外で、後方支援部隊に戦功章を与えその実績を評価したほどであった。
ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。この為、日本側は「敵よりも距離が短いので我が方が補給上有利」と考えていた。しかし、輸送力がはるか及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。
満州国内の民間自動車をかき集めるなどの努力は行われたものの、燃料の輸送も十分に行えず、せっかく前線に送られた自動車も有効活用できないことがあった。ソ連側が自動車輸送によって大規模かつ迅速に補給を受けていたのに比べ、貧弱極まる補給態勢だった。この補給量と戦力の隔絶が以後の戦いの帰趨を決したといっても過言ではない。
ノモンハン事件 19
第二次ノモンハン事件
停戦後の国境画定交渉一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、日本の東條茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。
だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。
停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の画定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。
交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。
対立の対象となった地域のうちおよそ8割の、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって画定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した残る2割ほどの南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで画定した。
ノモンハン事件 18
第二次ノモンハン事件
陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日に関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。
紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。
他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七戦での要撃も容易ではなく大いに悩まされたが、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。
戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の九七式司令部偵察機を始め多数の偵察機が運用された。
しかし、ソ連軍の偽装を見抜けずに、動静を見誤ってたびたびソ連軍の後退を伝える誤報を流すなどして、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。