- 2025/02/02 [PR]
- 2011/10/28 明治21年 栗山町(角田村)開拓<宮城県角田藩士泉麟太郎>
- 2011/10/27 北海道の歴史(年表) 明治21年
- 2011/10/26 北海道開拓(明治21年~明治25年)
- 2011/10/25 北海道の歴史(年表) 明治20年
- 2011/10/24 明治19年 <尋常小学校>
- 2011/10/23 明治19年 <上川仮道路(現在の国道12号線)開通>
- 2011/10/22 北海道の歴史(年表) 明治19年
- 2011/10/21 明治18年 <釧路集治監(標茶集治監)>
- 2011/10/20 北海道の歴史(年表) 明治18年
- 2011/10/19 明治17年 <岩見澤村の開村>
2011/10/28 05:01:56
栗山町(角田村)開拓 <宮城県角田藩士泉麟太郎> |
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栗山町(くりやまちょう)は、北海道空知支庁管内南部にある町。 |
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旧町名角田(かくた)は、開拓者の出身地「仙台藩角田」よりとられた。 |
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明治21年5月16日宮城県角田藩士泉麟太郎氏が「夕張開墾起業組合」を設立 | ||||||
7戸24人が阿野呂川左岸(角田)に入植。 |
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明治23年には「角田村」設置が告示され、1900年(明治33年)角田村戸長 | ||||||
役場が設置。開田事業、二股炭礦開坑、奥地開発、栗山市街地区の商工振 | ||||||
興などで明治33年の角田村の戸口が1,200戸、5,000人を突破。 |
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昭和に入り、角田炭礦の発展とともに人口は20,000人を突破し、昭和24年 | ||||||
に町制が施行され「栗山町」と改称、1963年(昭和38年)には役場庁舎を | ||||||
角田から栗山へ移行。 |
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2011/10/27 08:10:43
1888年(明治21年) | |||||||||||
2月25日 | 大阪・名古屋・広島・熊本の各師団に騎兵大隊を設置 | ||||||||||
4月13日 | 東京上野黒門町に日本初の珈琲喫茶店「可否茶館」開店 | ||||||||||
4月30日 | 黒田清隆内閣成立 (明治21年4月30日~明治22年10月25日) | ||||||||||
5月29日 | ジャパン・ブルワリーが明治屋と販売契約を締結、「麒麟ビール」を大瓶1本18銭で発売 | ||||||||||
6月10日 | 乃木希典、ドイツ留学より帰朝(以来性格一変して謹厳そのものとなる) | ||||||||||
10月1日 | わが国初の火災保険会社、東京火災保険会社、営業開始 | ||||||||||
12月3日 | 全国を3府43県と改める | ||||||||||
※ | 北海道庁赤れんが庁舎ができる。 | ||||||||||
※ | 北海道庁の技師、坂市太郎がシホロカベツ川上流にて大炭層の露頭「夕張の石炭大露頭」 | ||||||||||
を発見。 | |||||||||||
※ | エゾシカが絶滅の危機に瀕したため、全道一円で捕獲が禁止 |
2011/10/26 08:44:55
北海道開拓(明治21年~明治25年) | ||||||||
会社組織,農民団体 | ||||||||
明治20年代以降は、会社組織による起業的な移住や会社に類似した結社・団体移住 | ||||||||
自作農をめざす農民団体の移住、最初から小作人を募集する小作農場の移住、そしてこ | ||||||||
れらの団体・組織員の補充をし、あるいは空白の土地をうめる個別の農民移住が主流に | ||||||||
なった。これら移住の要因はほとんどの場合,貧困,生計困難である。また,震災や | ||||||||
火災、洪水などの災害のために郷土を離れて北海道に移住してきた地域団体もある。 | ||||||||
十津川団体(明22,新十津川)奈良県十津川から | ||||||||
三重県団体(明治26年,幌向) 三重県から | ||||||||
石川県移民団体(明治28年,花畔) 石川県から | ||||||||
江波団体(明治29年,音更) 富山県から | ||||||||
加賀団体(明治30年,倶知安) 加賀から | ||||||||
興復社(明治30年,十勝国豊頃村) 二宮尊徳の孫尊親,福島から |
2011/10/25 08:44:08
1887年(明治20年) | ||||||||
1月22日 | 東京市街に始めて営業電燈点火。 | |||||||
5月20日 | 博愛社から日本赤十字に改称。 | |||||||
5月23日 | 榎本武揚、佐野常民ら16名の勲功により子爵を高崎正風、井上良馨ら18名に男爵を授ける | |||||||
5月 | 江別と篠津の第一大隊第三中隊を、第三大隊第一中隊とする。 | |||||||
野幌の第一大隊第四中隊を、第三大隊第二中隊とする。 | ||||||||
新琴似兵村第一大隊第三中隊。(九州の士族を中心に屯田兵146戸が新琴似に入植) | ||||||||
室蘭和西兵村 室蘭屯田兵中隊。110戸。 | ||||||||
※ | 上砂川炭田が発見される。 | |||||||
※ | 現札幌市の手稲区、西野、平和、福井などの地区に広島県人や福井県人などが相次いで入植。 | |||||||
※ | 室蘭工業大学の前身「札幌農学校工学科」設立。 |
2011/10/24 08:41:49
<尋常小学校> |
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尋常小学校は明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存 | ||||||
在した初等教育機関の名称。 | ||||||
1886年(明治19年)の小学校令で尋常小学校と高等小学校が設置 | ||||||
される。このときの尋常小学校(義務教育)の修業年数は3年間も | ||||||
しくは4年間で、1900年(明治33年)の改正で4年間のみに統一 | ||||||
され、その後、何回かの変遷を経て、澤柳政太郎文部次官の下、1907 | ||||||
年(明治40年)に6年間に延長された。 | ||||||
1941年(昭和16年)の国民学校令により、国民学校が設置され、 | ||||||
尋常小学校と高等小学校は消滅した。 | ||||||
第二次世界大戦終戦後、1947年に消滅前の尋常小学校を母体に小学校の | ||||||
名称が復活、消滅前の高等小学校は1947年に新制中学校に改組された。 |
2011/10/23 08:20:24
<上川仮道路(現在の国道12号線)開通> |
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国道12号の歴史は、前身となる市来知(現 三笠市)- 忠別太(現 旭川市) | ||||||
間の87.9kmの上川道路が1886年(明治19年)5月に着工したのにはじまる。 | ||||||
工事には、月形町の樺戸集治監の囚人が駆り出され、わずか90日後の8月に | ||||||
幅約2メートルの道路が仮開通した。この工事の復命書に「可成(なるべく) | ||||||
直線路に為すを主とし」とあったことから、美唄市 - 滝川市間の日本一長い | ||||||
直線道路が誕生した。 | ||||||
翌年から、樺戸、空知集治監の囚人らによって改修が行われ、1889年ごろに | ||||||
完成した。工期の短さから囚人の労働は過酷なものであったことがわかるが | ||||||
動員数や犠牲者数は記録に残っていない。 |
2011/10/22 08:31:14
1886年(明治19年) | |||||||||||
北海道庁設置 初代長官岩村通俊の施政方針演説 | |||||||||||
「移住民を奨励保護するの道多しといえども,渡航費を給与して,内地無頼の | |||||||||||
徒を召募し,北海道をもって貧民の淵藪(えんそう)となす如きは,策のよろ | |||||||||||
しき者にあらず。…自今以往は,貧民を植えずして富民を植えん。是を極言す | |||||||||||
れば,人民の移住を求めずして,資本の移住を是れ求めんと欲す。」 | |||||||||||
直接保護から間接保護へ,内地資本の導入, | |||||||||||
内国植民地化 | |||||||||||
明治19年~同22年 北海道庁による植民地選定事業 | |||||||||||
明治19年 「北海道土地払下規則」発布国有未開地の民間への払下げが実施された。 | |||||||||||
原則として10年間無償で土地を希望者に貸与し,その後に払下げて所有権を与える。 | |||||||||||
1月26日 | 北海道の3県を廃止し北海道庁開設(長官は岩村通俊) | ||||||||||
4月9日 | 東京高等師範学校開設 | ||||||||||
4月10日 | 師範学校令・小学校令・中学校令を公布する | ||||||||||
4月29日 | 商船学校、高等師範学校などの管制交付 | ||||||||||
5月 | 根室郡東和田兵村 第二大隊第一中隊。220戸。 | ||||||||||
※ | 上川仮道路(現在の国道12号線)開通 | ||||||||||
※ | 南幌町に新潟県から10戸の入植があり、幌向原野に越後村を開きました。 | ||||||||||
※ | 福井県出身の石川藤助が函館の湯の川に100度C以上の効能すぐれた温泉を掘り当て湯治場を開く。 | ||||||||||
※ | 幾春別炭坑が開坑し、以後石炭のまちとして栄えた。 | ||||||||||
※ | 赤心社、日高駒の育成始める。牧場を作り道産雌馬十数頭と南部産種雄馬を入れ、のち | ||||||||||
道庁からアルゼリー、トロッター両種馬の管理をまかされ、社員を真駒内種蓄場で技術 | |||||||||||
を習得させ名馬日高駒の発祥になった。 | |||||||||||
※ | 江東小学校 江別町尋常小学校(明治25年)前身設立 |
2011/10/20 00:58:13
1885年(明治18年) | |||||||||||
内閣大書記官金子賢太郎の「北海道三県巡視復命書」(「囚人の死は一石二鳥」)により, | |||||||||||
囚人による道路開削が始まる(北見峠―網走間など)。 | |||||||||||
3月9日 | 初めて電話機・電燈が輸入される(エジソンが電話機と白熱電燈26個を工部大学に寄贈) | ||||||||||
7月1日 | 特許法実施(第1号特許は堀田瑞松届けの錆止め塗料) | ||||||||||
7月 | 札幌郡野幌別兵村 第一大隊第四中隊。138戸。 | ||||||||||
9月17日 | 日本郵船創立 | ||||||||||
10月16日 | 上野駅開業 | ||||||||||
11月14日 | 最初の坑業組合となる九州の筑豊石炭坑業組合成立 | ||||||||||
12月22日 | 最初の組閣、第一次伊藤内閣成立し初代総理大臣に伊藤博文(宮相兼務) | ||||||||||
(明治18年12月22日~明治21年4月30日) | |||||||||||
※ | 現在の札幌市厚別区青葉町ともみじ台を含めた下野幌地区に、石松弥七と小ケ口石太郎 | ||||||||||
が上野幌地区には小ケ口石松、石井市郎兵衛、大崎三平、太田鉄五郎らがそれぞれ入植。 | |||||||||||
また、大谷地にも阿住勘五郎、駒林鉄五郎が入り、開拓のクワが入れられた。 | |||||||||||
※ | 現在の標茶町に釧路集治監が開庁。 |
2011/10/19 00:39:56
<岩見澤村の開村> | ||||||
現岩見沢市(いわみざわし)は、空知支庁南部の市、空知支庁所在地。 | ||||||
明治15年11月13日、幌内煤田鉄道の幌内~手宮間が全線開通し、うっそう | ||||||
とした未開の地に文化の光が差し始めた。 | ||||||
明治16年に公布された移住士族取扱規則により、この地に札幌県勧業派出 | ||||||
所が設置され、明治17年10月6日設村の告示により岩見澤村となった。 | ||||||
明治22年には、岩見澤・滝川・忠別太(現旭川)間、明治23年には岩見澤 | ||||||
~夕張間に道路が開通しました。また、明治24年に岩見澤~歌志内間、同 | ||||||
25年に岩見澤~輪西(室蘭)間の鉄道が開通し、岩見澤駅も元町から現在 | ||||||
地に移転、新市街地が形成されるとともに、陸上交通の要衝となった。 |