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1884年(明治17年)                
1月23日 「八雲小学校黒岩分校」開設。                
3月10日 芝浜離宮の延陵館に天覧相撲催され初代梅ケ谷に横綱を許される。          
3月17日 憲法制定取調局設置され、参議伊藤博文が長官を兼ねる。            
4月7日 山本長五郎(清水次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる。          
5月 琴似屯田兵を第一中隊、山鼻を第二中隊、江別と篠津を第三中隊に編成。          
7月7日 華族令定める(爵位公・侯・伯・子・男の五位の制成る)            
10月6日 設村の告示により岩見澤(イワミザワ)村となり、戸長役場、郵便局も設けられ、開拓
  の事業も順調に進み活気のある村となってきた。              
  (明治17~18年には、山口県・鳥取県ほか10県からの士族277戸、1,503人の集団移住に
  より、初めて開拓の鍬は打ち下ろされました。)              
宮内省の所管に変更になり新冠御料牧場となる。              
私立赤心小学校を教会兼用として建て、日曜日は安息日としてキリスト教講話や        
  道徳などの寺小屋式教育を始めた。                
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  <信濃開拓地/札幌市厚別区>
 
 
 厚別地区の本格的な開拓は、明治15年に、この地を経由して、札幌と
   幌内炭鉱(三笠市)の間に鉄道が開通したことから始まりました。
   現在の厚別中央から厚別西にかけての、JR厚別駅周辺には、明治16年に
   河西由造たち8戸が入植しました。
 
   この人たちは、長野県出身で、当時長野県のあたりを「信州信濃」と呼ん
   でいたことから、この入植地も、通称「信州開墾地」とか「信濃開拓地」
   と呼ばれるようになりました。現在も、小・中学校や神社・公園などに、
  この名が残っています。  
 
     
 
明治18年になって、現在の青葉町ともみじ台を含めた下野幌地区に、
  石松弥七と小ケ口石太郎が、上野幌地区には小ケ口石松、石井市郎
  兵衛、大崎三平、太田鉄五郎らがそれぞれ入植しました。    
  また、大谷地にも阿住勘五郎、駒林鉄五郎が入りました。    
  現在の厚別北と厚別東を含む小野幌地区は、これより少し遅れて、明治
  22年に秋本槌五郎が入り、炭焼きを始めました。    
  山本地区は、さらに遅れ、小樽の山本久右衛門が、北海道からこの地の払
  い下げを受け、明治42年から開墾に着手しました。    
  この後も、多くの開拓者が厚別地区に入りましたが、白石区のように、
  本州からの集団で、直接移住したのではありません.小樽や札幌の中心に
  いったん定住した後、移り住んだ人がほとんどでした。    


帯広の開拓<静岡出身の晩成社>
 
   
帯広の街は、官主導の屯田兵や旧幕府家臣による開拓ではなく、静岡県出身  
の依田勉三率いる晩成社一行が明治16年に入植したのが開拓の始まり。
 
 
依田勉三の北海道開拓の志をもとに、土地開墾、農業、牧畜、造林などを目  
的として明治15年、静岡県伊豆国那賀郡大沢村(現、賀茂郡松崎町大沢)で  
同地の豪農、依田家によって結成された会社です。      
(資本金を5万円。当時の1円は、現在の4000円)。      
明治16年に現在の帯広市へ入植し、3年後の明治19年に大樹町生花晩成  
地区で晩成社当縁牧場を開設し、牧畜業を始めました。    
依田勉三が「開拓のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだように、一つの鍋で全  
ての煮炊きをした。          
明治28年に通称十勝監獄が開設され、受刑者によって大通が整備され市街地  
が形成された。市街は計画的に整備されており、帯広駅を中心に碁盤目状の  
区画が四方に広がり、大通公園から北東、北西、南東、南西に対角線方向の  
道路(火防線)が設けられている。        


  <大江村の開拓>  
ニッカウヰスキーで有名な余市の南に仁木町があり、ここに「大江」と
 いうところがあります。
   この地の開拓の歴史は、旧長州藩主毛利元徳公が明治14年6月余市郡山  
道村の一部(現在地)300万坪の払い下げを願い出て、同年8月に許可
   を得ました。
   明治16年3月9日「余市郡に大江村を新設(告示)」。


1883年(明治16年)                
2月16日 天気図初めて発行される(七色刷りの天気図で一日一回発行)
3月9日 大江村の成立。山口県からの移民を中心に大江村が開拓される。大江は、山口県を支配      
  した毛利氏の子孫とされる大江広元にちなむ。              
5月 静岡県出身の依田勉三率いる「晩成社」が帯広に入植。            
現在の札幌市厚別駅周辺に長野県出身の河西由造たち8戸が入植した。          
  「信州信濃」と呼んでいたことから、「信州開墾地」とか「信濃開拓地」と呼ばれるよ        
  うになった。                    
11月28日 鹿鳴館、開館式挙行。                  
移住士族取扱規則により、岩見沢に札幌県勧業派出所が設置される          
創成小学校を附属として札幌県師範学校が創立              
この頃からアイヌに対する強制移住が始まる。              
                       


    <篠路興産社・滝本五郎>    
板野郡長江村(現・鳴門市大津町)出身の滝本五郎は、北海道に移住
して大農法による農場開拓を目指し、明治14年、実弟阿部興人と組ん
  で徳島興産社を設立した。
明治15年5月、47歳で篠路に入地。同18年には札幌郡篠路村の興産
  社農場に製造所を設けて蒅(すくも)の製造に乗り出した。
興産社は利子補給の特典を受ける保護会社となり、北海道庁の支援を
  受けながら、製藍事業を進めた。
同28年には製藍高4万3000貫に達し、北海道藍は本場の阿波藍を圧
迫するほどであった。しかし全国の伝統的な製藍業が化学染料の合成
藍に押されて衰退していく中で、明治30年には書業の中止を余儀なく
  されていった。
現在、民芸ブームの中で伝統的な藍染めが見直され、壊滅状態にあっ
た藍が復活しているが、北海道では徳島県出身の篠原家が伊達市で今
  も藍づくりを続けている。
また現在の札幌市北区篠路町の「あいの里」は、興産社の藍を地名の
  ゆかりとしている。


     <国稀(日本最北の酒蔵)>    
国稀は明治15年、初代本間泰蔵が、増毛郡役所に醸造免許鑑札願いを届け出
て創業した。本間泰蔵は、嘉永2年(1849)新潟県佐渡の仕立て屋の三男として
生まれ、明治6年23歳で小樽に渡り呉服店の養子格の番頭として働き、ニシン
景気でわく増毛にしばしば行商で来ていましたが、明治8年に増毛に移り住み
呉服商を始めた。          
明治15年には「丸一本間」を名乗り、本業の呉服商の他に、荒物雑貨販売、
呉服雑貨や漁獲物の輸送のためだけではなく、地域住民の需要を満たす海運
業、当時この地第一の産業であったニシン漁にも手を拡げ、醸造業も始め
るに至った。          


        <北海盆唄>  
  北海盆唄は、北海道の民謡。北海道の盆踊りで使用される曲でもある。
三笠市幾春別(いくしゅんべつ)の炭鉱が発祥の地であり、北海道各
  地でお盆になると盆踊り用の曲として用いられる。
 元は「べっちょ節」(炭鉱節)と呼ばれる卑猥な歌詞を持つ歌であり、
炭鉱労働者が盆踊りとして踊っていたものであるが、昭和15年頃,太
平洋戦争後(昭和15年8月)、「北海民謡の父」といわれる今井篁山が
歌詞・曲調を見直し、三橋美智也の歌によりレコード化、大ヒットし
たことがきっかけに全国的に普及した。
『8時だョ!全員集合』のオープニングテーマは、この曲の替え歌であ
   る。
  1番    
  ハアー 北海名物    
  ハアー ドウシタ ドウシタ    
  数々コラあれどヨー    
  ハアー ソレカラ ドウシタ    
  俺がナー 俺が国サーのコーリャ    
  ソレサナー 盆踊りヨー    
  ハア エンヤー コーラヤ    
  ドッコイ ジャンジャン コーラヤ    
             


        <空知集治監>    
 明治15年6月、現在の三笠市に空知集治監が開庁。主に明治12年に開坑
 した幌内炭鉱で受刑者を使役するために建設され、明治23年には3,248人
 を収監していた。           
 受刑者のうち1,000人程度が幌内炭鉱の採炭労働に、他は道路建設などに
 従事していた。幌内炭鉱は明治22年に北海道炭礦鉄道に払い下げられたが
 その後も炭鉱での囚人の使役は継続していた。囚人労働が中止されたのは
 明治27年末のことである。明治23年には3,248人を収監していた。 
 何度か名称を変更した後、明治36年に廃止。    



1882年(明治15年)                
1月1日 全国人口、3670万人118人(東京98万2143人)    
3月20日 上野動物園開園                  
4月28日 東京上野の帝室博物館落成(現在の東京国立博物館)            
5月15日 徳島県人滝本五郎らが「興産社」を組織して篠路に入植し、藍を栽培。      
6月 空知集治監 市来知(現三笠)に設置              
8月 琴似屯田兵を第一、第二中隊、山鼻を第三、第四中隊に編成。          
10月10日 日本銀行開業                  
10月23日 上磯小学校七重浜分校として開設。              
11月13日 幌内煤田鉄道の幌内~手宮間が全線開通              
明治14年の開拓使官有物払下事件を発端とし開拓使は廃止。
開拓使の廃止で北海道は札幌・函館・根室の3県に分割、農商務省北海道事業管理局      
  が設置(1883年)された。                
三笠は『北海盆唄』発祥の地。三笠の地名の由来は、空知集治監にあった裏山が      
  奈良の三笠山に似ているという、囚人が望郷の念をこめて当時から三笠山と呼んでいた      
日本最北の酒蔵「国稀」創業。              


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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