住 所:小樽市東雲町8番1号
庭面積 :約748m2
開放期間:毎年4月下旬〜10月初旬までの土曜、日曜、祝日のみ
入場料 :無料
概 要
小樽の雑穀商、高橋直治氏によって大正元年に建てられた邸宅。
当時は明治末期に発生した小樽大火の影響で住居と店舗を別け、
展望の良い場所に住居を構えることが流行したそうで、この邸
宅もその一つである。
後に高橋家から寿原家に名称が代わり、寿原家から小樽市に寄
贈されたため、現在の名称で呼ばれている。
冬季を除き一般公開されている。
寿原邱は土地の傾斜をうまく利用して、下に母屋、中段に洋室、
上段に和室の3つの建物が別にあって、それぞれの建物を階段
状の廊下が繋いでいた。
中庭からは、一面を蔦の緑に被われた洋館が印象深く姿を見せ
ている。
純日本風の庭園だが、こちらも傾斜地を利用して非常にうまく作
られている。
池には水が張られていないが、かつては鯉などがのんびりと泳い
でいたに違いない。庭からはもちろん小樽の市街地が一望できる。
小樽の水天宮は安政6年(1859)に建てられ、祭神は運河の街にふさわしい
水波能女神(ミズハノメノカミ)が祭られています。
現在の社殿は大正8年に宮大工伊久治三郎によって建てられた。
本殿、中殿、拝殿が連結する形式の権現造りで、屋根は銅板葺き。
本殿は流造りで、置千木、かつお木を上げています。
拝殿は入母屋造りで、正面屋根に大きい千鳥破風、向拝屋根上に小さい
千鳥破風2個を飾っています。
社殿塀内には明治26年に旧海軍水路部が設置した「経度天測標」と
明治38年ポーツマス条約により国境を定めた「樺太日露国境中間標石」
のレプリカがあります。
これは明治40年の旧樺太(現サハリン)の国境画定作業を記念し作ら
れたものを昭和6年に小樽公園から移設したもの。
小樽駅舎の歴史 2
1903年(明治36年)6月28日- 北海道鉄道(初代)の小樽中央駅として開業。
1904年(明治37年)10月15日- 北海道鉄道(初代)全通。高島駅に改称。
1905年(明治38年)8月1日- 北海道炭礦鉄道の小樽駅(現在の南小樽駅)との間に連絡線開通。
12月15日- 中央小樽駅に改称。なお、この間に「稲穂駅」が存在したとの
記述が散見されるが、当時の新聞公告でも「高島」から「中央小樽」への
改称となっており、『北海道鉄道百年史』など旧国鉄関係の書籍でも「稲
穂駅」は存在していない。
1907年(明治40年)7月1日- 鉄道国有法により、北海道鉄道(函館駅 - 小樽駅(当時)間)が国有鉄道に買収され、中央小樽駅も国有鉄道へ移管。
1911年(明治44年)7月6日- 二代目駅舎に改築
1920年(大正9年)7月15日- 小樽駅に改称。
旧小樽駅を市街の中心地区と間違える客が後を絶たなかったため改称に至った。
1934年(昭和9年)12月25日- 三代目駅舎(現駅舎)に改築。
1987年(昭和62年)4月1日- 国鉄分割民営化で北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅になる。
小樽駅周辺
現在の小樽駅は、小樽港内手宮駅に通ずる
幌内鉄道の沿線にあった一駅ではない。
その後、函館と小樽との間に敷設された北海道鉄道の終着駅として誕生したものであった。
開拓使によって敷設され民間に払い下げられた幌内鉄道は、
明治22年に薩摩出身の堀基を中心に本州資本をもって設立された北海道炭礦鉄道会社
の経営下に入っていった。
それから10年、民間において「函館―小樽間の鉄道の実現」を要望する声が高まった。
そうした世論を背景として、渋沢栄一や北垣国道らの尽力と苦労の末に、
同32年10月に開かれた会社創業総会において、北海道鉄道株式会社が設立されることとなった。
経済界の不況及び企業としての収益採算に疑問を抱き投資を渋る者も多く、
資金難に遭遇しながらも、やっと政府の補助金を獲得できる目処がついて、
同34年に鉄路の敷設に着工することができたのであった。
これには、日露両国間の情勢の険悪化が微妙に作用していた。
時の陸軍大臣は、閣議において「北海道鉄道の軍事上の必要性」を強調し、
「旭川の兵鎮と函館要塞とを連絡して動員および兵站輸送とを自由にする」ことを力説したのであった。
参謀本部からも鉄道速成の要求が出されていて、補助金の下付に際しては「着工後3年以内の竣工」
が条件としてつけられていた。
しかし、補助金は鉄道建設費の一割にも満たず、財源としては、
株金や社債借入金に期待せざるを得なかった。
株主は、東京、京都、大阪、愛知などに在住した北海道に関係する会社の役員や大工地所有の
華族たちが大部分であった。
道内資本は全体の約八分の一に過ぎなかったし、一人平均の持株数も少なかったが、
道内資本の皆無に等しかった炭礦鉄道とは際立った対照を示していた。
小樽から資本参加した者には「小豆将軍」と称された高橋直治や船主同盟会の中堅であった
金子元三郎などがいた。
荒巻義雄(あらまき よしお)
1933年4月12日-
小説家、SF作家、推理作家、評論家。小樽出身。
本名、荒巻義雅。
『紺碧の艦隊』の大ヒットで、いわゆる架空戦記小説の世界を代表する小説家として広く知られている。また、札幌時計台ギャラリーのオーナーもつとめている。
静修女子大学(現・札幌国際大学)教授も務めた。
札幌南高等学校を経て、早稲田大学第一文学部心理学科卒業。
出版社に編集者として勤務するが、1962年に家業を継ぐため札幌に戻る。
北海学園大学工学部建築学科を卒業し、二級建築士の資格を取得。
1965年から1967年、SF同人誌「CORE」を主催。
1970年には、評論『術(クンスト)の小説論』、短編『大いなる正午』を『SFマガジン』に発表し、作家・評論家としてデビュー。
1986年~1988年に刊行された『ニセコ要塞1986』シリーズを皮切りに、架空戦記を執筆するようになる。『ニセコ要塞』は北海道を舞台にした近未来戦記であり、1990年代以降の架空戦記小説ブームの始祖とも言える作品であった。
1994年には、架空戦記作家宣言とも言える評論『シミュレーション小説の発見』を発表。「世界模擬実験装置としてのシミュレーションにこそ、小説の未来がある」として、以降、架空戦記小説を多数発表する。
受賞
1972年-『白壁の文字は夕日に映える』で星雲賞日本短編賞を受賞。
岡田 三郎(おかだ さぶろう)
1890年2月4日- 1954年4月12日
小説家。
松前郡福山町の鰊の漁師の家に生まれる。14歳で小樽に移住。
庁立小樽中学校(同校は現在、小樽潮凌高校となっておりその校歌を岡田三郎が作詞している。)を卒業し小樽で税務署員を務め、旭川で兵役につく。
画家を志望して太平洋画会研究所に入るが兵役後に文学志望へ転じ、徳田秋声に師事。
早稲田大学英文科在学中に『涯なき路』『影』を発表して文壇に登場。
1919年に大学を卒業すると博文館に入社し、『文章世界』編集部に入る。のち、実の姉である日本女子大学 英語の教師であった岡田一の援助により1921年(当時31歳)にパリに遊学。
彫りの深い美貌で知られ、当時フランス女性に日本人で本当に人気があったのは東郷青児と岡田三郎だけだと謳われた。
1923年日本に帰国してからは、短篇形式コントを紹介すると共に長篇小説『巴里』を発表。
1937年、妻子を捨て銀座のカフェで働く19歳の女給と名古屋に出奔し、スキャンダルとなる。
この駆落ち体験を題材に『秋』『玩具の勲章』『冬』『冬去りなば』などの作品を発表。
1932年(42歳)、徳田秋声を激励する為に結成された秋声会(あらくれ会)に阿部知二、井伏鱒二、尾崎士郎、榊山潤、中村武羅夫、樽崎勤、舟橋聖一、室生犀星とともに参加する。
1930年(40歳)日本キネマという映画会社を設立。加藤武雄原作の『昨日の薔薇』を岡田三郎の監督で、市政会館にて封切り。
前妻と別れてその女給と再婚したが結核で先立たれた上、敗戦後は時流から見捨てられた作家となった。やがて自らも病に倒れ、三児を遺して肺結核で窮死した。
岡田三郎の資料は、遺族より小樽市ライオンズクラブの支援によって開設された市立小樽文学館に寄贈され、常時展示されている。
伊藤整(いとう せい)
1905年1月16日- 1969年11月15日
評論家、詩人、小説家である。本名は整(ひとし)。
東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。
20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。昭和初期にジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。『ユリシーズ』を翻訳する。
北海道時代には詩作を中心に行い処女詩集『雪明りの路』で注目されるものの、上京後は詩作を離れて小説・評論に重心を移す。戦前・戦中は詩壇・文壇でのみ知られた存在だったが、戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。
北海道松前郡で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれた。
1906年に塩谷村(のち小樽市塩谷町)へ移住。
旧制小樽中学(小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)卒業後、旧制小樽中学の英語教師に就任。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京する。
1927年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学ぶ。また北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結ぶ。
その後大学を中退し、1932年金星堂編集部入社。
1935年から1944年まで日本大学芸術科講師、1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師、1945年から1946年帝国産金株式会社落部工場勤務、1946年北海道帝国大学予科講師、1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師(英語)、1958年東京工業大学教授昇格、1960年から1961年コロンビア大学及びミシガン大学で講義、1962年日本ペンクラブ副会長、1963年『日本文壇史』により菊池寛受賞、日本近代文学館理事、1965年日本近代文学館理事長、1964年東工大を退職、1967年日本芸術院賞受賞、1968年日本芸術院会員。1970年、没後『変容』により日本文学大賞受賞。チャタレイ裁判で有罪となったことはその社会的地位にほとんど影響しなかった。
1969年11月15日、胃癌のため死去。