2010/07/09 00:00:53
北海道出身の作家
今 日出海 1
(こん ひでみ、1903年(明治36年)11月6日- 1984年(昭和59年)7月30日)小説家、評論家。初代文化庁長官を務めた。
函館に生まれた。三人兄弟の末子で、長兄は小説家で天台宗僧侶の今東光である。
日本郵船の船長であった父武平の転勤により、1911年(明治44年)に神戸市の小学校へ入り、1917年(大正6年)神戸一中へ進んだが、病気休学し、翌年東京の暁星中学へ移った。1922年(大正11年)、五年制中学の四年修了で旧制浦和高校に合格した。
1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆・鈴木信太郎らに学んだ。同期に小林秀雄・三好達治・中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰・武田麟太郎らがいた。
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2010/07/06 00:10:55
川内康範 3
日本的ヒーローの創造者
『月光仮面』を筆頭に川内三部作とも呼ばれる『レインホーマン』『ダイヤモンド・アイ』『コンドールマン』等、日本の特撮ヒーローの草創期に活躍した。
『月光仮面』のキャッチフレーズは「憎むな、殺すな、赦しましょう」であるが、これには康範が仏寺に生まれ育ったことが影響していると自から語っている。
昭和30年代のテレビ番組は外国製人気番組の全盛時代であり、貴重な外貨を費やす外国製番組に替えて国産番組を増やしていくことは時代の要請でもあったが、この依頼に対して日本独自のヒーロー番組を作り上げる上で、コンセプトは仏教で言う『借無上道』-無償の愛こそがこの世で最も尊いという康範の考えであった。
ゆえに、月光仮面は善悪区別なく誰にでも降り注ぐ月光を象徴した月光菩薩をモデルとして創造され、また絶対的な力を持つ超人=神仏(如来)ではなくその代行者に過ぎず、悪を懲らし善人を助けるが、裁きはしないという性格を与えられた。『借無上道』の精神は康範の手がけるヒーローすべてに共通するテーマとなっている。
2010/07/05 00:09:32
北海道出身の作家
川内康範 2
1975年から監修として携わったテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』は、1994年まで20年弱にわたる長寿番組となった。
1984年のグリコ・森永事件では、週刊誌上(週刊読売)にて犯人に対し「私財1億2000万円を提供するから、この事件から手をひけ」と呼びかける。犯人は川内の申し出に対し「月光仮面の 川内はん あんたも ええ男やな」と前置きした上で、「けどなわしら こじきや ない」と拒絶したため(1984年11月22日付声明文)、このことで事件が収束に向かうことは無かったものの、大きな話題を呼んだ。
かつてはメディアの露出も多く、多数の週刊誌連載を抱えていた。
晩年まで地元紙である『デーリー東北』には時事問題等についての寄稿や投稿が多かった。
晩年まで地元紙である『デーリー東北』には時事問題等についての寄稿や投稿が多かった。
2000年代あたりからは、年齢及び体力的な問題もあり、公の場への登場は控えていたが「おふくろさん騒動」以後は再び公の場へ出る機会が増え、晩年は国民新党顧問に就任した。
2007年2月、歌手の森進一に対し今後自作曲の歌唱禁止を通告する会見を開き、いわゆる「おふくろさん騒動」が勃発。数十年ぶりに時の人となった。この騒動は新聞の社説にまで取り上げられた。年末には薬害肝炎問題の対応に苦慮する福田康夫総理にアドバイスしたとも言われる。
2008年4月6日午前4時6分、青森県八戸市の病院にて慢性気管支肺炎の為、88歳で死去。
2010/07/04 00:07:26
川内康範 1
(かわうちこうはん、1920年(大正9年)2月26日- 2008年(平成20年)4月6日)
作詞家、脚本家、政治評論家、作家である。
函館市出身。本名は潔(きよし)。青森県八戸市に在住していた。
日蓮宗の寺に生まれる。小学校を卒業後、家具屋の店員、製氷工場、製缶工場、炭鉱夫などの数々の職業を転々とする。
大都映画で大道具だった兄を頼って上京。新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね、日活のビリヤード場に就職。
人脈を広げて、日活の撮影所に入社する。1941年、東宝の演劇部へ入社。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当。その傍ら舞台の脚本なども執筆。東宝退社後、新東宝やテレビなどの脚本家、浅草の軽演劇の劇作家として本格的な活動開始する。
大都映画で大道具だった兄を頼って上京。新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね、日活のビリヤード場に就職。
人脈を広げて、日活の撮影所に入社する。1941年、東宝の演劇部へ入社。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当。その傍ら舞台の脚本なども執筆。東宝退社後、新東宝やテレビなどの脚本家、浅草の軽演劇の劇作家として本格的な活動開始する。
1945年、第二次世界大戦の戦没者の遺骨引揚運動を開始。1955年まで10年間続ける。また、 海外の日本人抑留者の帰国運動もおこなっている。
1950年代から1960年代にかけて、多くの映画の原作脚本を手がける。
特に、1958年に原作と脚本を手がけたテレビドラマ『月光仮面』は有名で、数多くの子供向け番組の原作や監修を手がける。
その後作詞活動も始め、「誰よりも君を愛す」、「君こそわが命」、「骨まで愛して」、「恍惚のブルース」、「花と蝶」、「伊勢佐木町ブルース」、「おふくろさん」など数多くのヒット曲を送り出す。
2010/05/30 00:34:12
北海道立近代美術館の所蔵品から
約40作家、200点の作品を選りすぐり
当館コレクションも加えて構成。
(前期・後期で約120点展示替)
約40作家、200点の作品を選りすぐり
当館コレクションも加えて構成。
(前期・後期で約120点展示替)
北海道立美術館では、
〈道南の美術〉〈現代美術〉〈東洋美術と書〉を大きな柱と
してすぐれた作品の収集を続けています。
〈道南の美術〉〈現代美術〉〈東洋美術と書〉を大きな柱と
してすぐれた作品の収集を続けています。
五稜郭公園近く、幾何学的なデザインが目を引く道立の美術館。
絵画、彫刻、書、陶磁器と幅広い作品を見ることができる。
正面入口のアーチ形の玄関前にはブールデルの『自由』と題する
大きな裸婦像があり、ホールにはルノワールの『勝利のビーナス』やロダンなど、
ヨーロッパ近代彫刻の巨匠たちの作品7点を展示。
常設展示室では函館出身の画家、田辺三重松の作品をはじめ金子鴎亭[おうてい]など
道南ゆかりの作家の作品が並ぶ。
大きな裸婦像があり、ホールにはルノワールの『勝利のビーナス』やロダンなど、
ヨーロッパ近代彫刻の巨匠たちの作品7点を展示。
常設展示室では函館出身の画家、田辺三重松の作品をはじめ金子鴎亭[おうてい]など
道南ゆかりの作家の作品が並ぶ。
2009/02/28 00:04:09
函館空港
ミグ25事件
全日空857便ハイジャック事件
1995年6月21日に、羽田空港発函館空港行きのANA857便が、
11時45分頃山形上空でハイジャックされました。
その後、函館空港に着陸し元銀行員によって占拠された事件
で犯人は365人を人質に航空機内に立てこもりました。
11時45分頃山形上空でハイジャックされました。
その後、函館空港に着陸し元銀行員によって占拠された事件
で犯人は365人を人質に航空機内に立てこもりました。
1995年6月22日
当時の総理であった村山富市(社会党)の指示により
北海道警察機動隊銃器対策部隊、函館方面函館中央署員、
警視庁警備部第六機動隊特科中隊(SAP、後の特殊急襲部隊SAT)が強行突入。
犯人を逮捕。
この便には歌手の加藤登紀子と実母、加藤のバックバンドのメンバーも乗っており、
バンドのメンバーが携帯電話で犯人の状況を伝えた事件でした。
北海道警察機動隊銃器対策部隊、函館方面函館中央署員、
警視庁警備部第六機動隊特科中隊(SAP、後の特殊急襲部隊SAT)が強行突入。
犯人を逮捕。
この便には歌手の加藤登紀子と実母、加藤のバックバンドのメンバーも乗っており、
バンドのメンバーが携帯電話で犯人の状況を伝えた事件でした。
2009/02/27 00:44:28
函館カール・レイモン
カール・ワイデル・レイモンは、函館の名産品として有名な
ハム・ソーセージの創始者。
「胃袋の宣教師」として知られた。1894~1987年。
ハム・ソーセージの創始者。
「胃袋の宣教師」として知られた。1894~1987年。
ドイツ・ボヘミア地方(現在のチェコスロバキア)の生まれ。
父がハム・ソーセージ作りの職人だった彼は、14歳で自らも
食肉加工の修行を始める。
食肉加工の修行を始める。
後にノルウェーの缶詰会社で働くようになり、アメリカで3年間の研修を行う。
研修を終えて帰る途中、あこがれの日本に立ち寄った。
その1年後の1920年、彼はアメリカの缶詰会社の誘いで函館にやって来た。
研修を終えて帰る途中、あこがれの日本に立ち寄った。
その1年後の1920年、彼はアメリカの缶詰会社の誘いで函館にやって来た。
レイモンは函館の旅館の娘と恋に落ちるが、当時国際結婚は日本では
社会的に認められず、結局レイモンの地元へ駆け落ちする。
社会的に認められず、結局レイモンの地元へ駆け落ちする。
地元ではハム・ソーセージを作り、順調に暮らす毎日。
だが、3年目のある日レイモンは妻に「日本に帰る」と告げる。
だが、3年目のある日レイモンは妻に「日本に帰る」と告げる。
函館に戻り、店を開いたレイモンと妻コウ。だが、時はまだ大正14年。
誰もハムやソーセージを知らず、まったく売れなかった。
誰もハムやソーセージを知らず、まったく売れなかった。
その後も精力的に生産を続けたレイモンだが、昭和13年に工場の実質的な
強制接収を受けてしまう。
強制接収を受けてしまう。
太平洋戦争中は外国人として言われなき迫害も経験した。
終戦後の昭和23年、レイモンは函館市元町でハム・ソーセージ作りを再開。
手作業でドイツの伝統製法を守り続ける彼のハム・ソーセージは
地元で高い評価を受けるようになっていく。
地元で高い評価を受けるようになっていく。
手作りで大量生産できないため販売店に入荷する日が限られており、
「お店にレイモンのハム・ソーセージが入荷する日を楽しみにしていた」と
当時を思い出す市民も少なくない。
「お店にレイモンのハム・ソーセージが入荷する日を楽しみにしていた」と
当時を思い出す市民も少なくない。
「胃袋の宣教師」として愛されたレイモンは、1987年に93歳で死去。
彼の教えと味は弟子に受け継がれ、「カール・レイモン」のハム・ソーセージは
肉本来のおいしさを時間と手間をかけて引き出す伝統製法で今も作り続けられ
函館の味として親しまれている
肉本来のおいしさを時間と手間をかけて引き出す伝統製法で今も作り続けられ
函館の味として親しまれている
2009/02/26 00:17:33
岡本 一平 (おかもと いっぺい)
函館市生まれ。大正から昭和にかけて、主に新聞や雑誌で漫画に
解説文を添えた「漫画漫文」という独自のスタイルを築いて大活躍し
た漫画家です。
当時は、総理大臣の名前は知らなくとも、岡本一平の名を知らぬ者
はいないといわれたほどの人気でした。
また岡本家は、父親が書家・岡本竹次郎、妻が小説家・岡本かの子、
長男が画家・岡本太郎という芸術一家としても知られています。
しかし、一平が函館出身ということはあまり知られていません。
解説文を添えた「漫画漫文」という独自のスタイルを築いて大活躍し
た漫画家です。
当時は、総理大臣の名前は知らなくとも、岡本一平の名を知らぬ者
はいないといわれたほどの人気でした。
また岡本家は、父親が書家・岡本竹次郎、妻が小説家・岡本かの子、
長男が画家・岡本太郎という芸術一家としても知られています。
しかし、一平が函館出身ということはあまり知られていません。
汐見町(現・元町)で生まれ、3歳までを函館で過ごしました。
父親の竹次郎は、先立つこと明治17年、函館にやってきてました。
函館師範学校で書記などを勤めていたところ、良縁に恵まれ、長男一平が誕生したのです。
父親の竹次郎は、先立つこと明治17年、函館にやってきてました。
函館師範学校で書記などを勤めていたところ、良縁に恵まれ、長男一平が誕生したのです。
2009/02/25 00:53:05
外人墓地
明治3年(1870)、在函5ヵ国の領事からの要望で正式に外国人
墓地として定められ、道をはさんで山側がロシア人墓地。
海側のプロテスタント墓地にはイギリス・ドイツ・アメリカ・イタリア人
墓地として定められ、道をはさんで山側がロシア人墓地。
海側のプロテスタント墓地にはイギリス・ドイツ・アメリカ・イタリア人
などの墓地があり、安政6年(1859)の開港から明治にかけて、
国際港として一翼を担った函館の華やかな側面を物語っています。
国際港として一翼を担った函館の華やかな側面を物語っています。
ロシア人墓地の斜め向かい、レンガ塀の中の祀堂は中国人墓地と
なっています。
故人の母国によって異なるさまざまな形の墓標が、函館湾を見下ろしながらなっています。
立っている風景は、彼らの望郷の念を表しているかのよう。
祖国を遠く離れ来函中の海上で、あるいは函館の地で亡くなった多くの
外国人が葬られている。
2009/02/24 00:40:17
湯の川温泉
1653年(承応2年)、松前藩主九代・高広(幼名 千勝丸)が
重い病気にかかり、治療も薬も効果なく、その病は日に日に
悪化していきました。
重い病気にかかり、治療も薬も効果なく、その病は日に日に
悪化していきました。
ある夜、母の清涼院は「松前城の東にある温泉に行けば、
どんな病も治る」というお告げを夢で見ました。
どんな病も治る」というお告げを夢で見ました。
この夢で見た温泉こそ湯の川温泉でした。
その温泉に千勝丸を湯治させると、まもなく全快したといいます。
その温泉に千勝丸を湯治させると、まもなく全快したといいます。
藩はそのお礼に、翌年、薬師堂を再建し、鰐口を奉納しました。
これが湯の川温泉の発祥と言われています。
文久3年頃(1863年)、100度Cの多量の湯が湧き出て、温泉宿ができました。
箱館戦争の終わり頃には、旧幕軍の総裁・榎本武揚が250名の傷病兵を湯治。
湯の川の隣町「榎本町」は彼の名にちなんだもの。
明治9年頃、福井県出身の石川藤助が100度C以上の効能すぐれた
温泉を掘り当て、明治19年に湯治場を開く。
この頃から入浴客が増え、料理店、宿、小売店などが建ち並び、
湯の川は賑わい始める。
温泉を掘り当て、明治19年に湯治場を開く。
この頃から入浴客が増え、料理店、宿、小売店などが建ち並び、
湯の川は賑わい始める。
移住者が増え、別荘が建ち、明治20年には新道(今の電車通)も開通し、
湯の川は保養地、避暑地として栄えることになる。
湯の川は保養地、避暑地として栄えることになる。
湯の川は海あり、山あり、温泉あり、と景色が素晴らしく、当時「湯の川八景」と
呼ばれるほどの景勝地として親しまれていた。
その後、北洋漁業の隆盛と共に賑わい、昭和20年頃まで「函館の奥座敷」と称されていた。
呼ばれるほどの景勝地として親しまれていた。
その後、北洋漁業の隆盛と共に賑わい、昭和20年頃まで「函館の奥座敷」と称されていた。