三石町
三石町(みついしちょう)は、北海道の日高支庁管内に
設置されていた町。
町名はアイヌ語の pit-o-usi「ピトウシ」(小石の多い土地の意)で、
これが転訛して「みついし(三石)」となったとする説などがある。
三石昆布が名産。
2006年3月31日に三石町が静内郡静内町と合併し、日高郡新ひだか町
となったため消滅。
沿革
江戸時代の三石郡域には、松前藩によってミツイシ場所が開かれていた。
陸上交通は、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る道(国道235号の前身)
が通じていた。
江戸時代後期、三石郡域は東蝦夷地に属していた。
国防のため寛政11年三石郡域は天領とされたが、文政4年には一旦松前藩領に復した。
三石神社は文政9年よりも前の創立。
また、天保7年7月15日には稲荷神社も創立されている。
安政2年三石郡域は再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。
1869年三石郡が置かれる。北海道日高国に属した。
風の館は、日高山脈襟裳国定公園内にあるので、周囲の景観や植生
に考慮し、また、すぐ隣にえりも岬灯台があるため、灯台の明かりを遮
らないようにということで、地下に埋もれるような形で、設計されています。
風の館は、風が作る「カルマン渦」をシンボルに、建物全体も
「カルマン渦」をイメージして作られています。
強い風が、細い枝など円柱状のものに当たったとき、その風下側に
できる規則的な空気の渦のことを「カルマン渦」と呼びます。
カルマン渦を実際に目で見ることはめったにありませんが、川の流れ
の中に細い枝を入れたとき、その川下にできる渦はカルマン渦と同じ
パターンをとっています。
風の強い日など、電線がヒューヒュー音を立ててうなっているのを聞い
たことがありませんか?
この音は、実はカルマン渦が出している音なのです。
アポイ岳
アポイ岳は、「北海道の背骨」と呼ばれる日高山脈の南端にあります。
標高は810.6メートルと低く、気軽に登山楽しめる山です。
この山の不思議なところは、標高が低いにもかかわらず2000メートル
級の山に登ったかのような光景に出会うことです。
標高500メートルを越えると高い木は無くなり、ハイマツが生い茂ります。
高山植物の花々が咲き、しかも世界でここにしかない植物も生えている
のです。
昭和27年には、高山植物帯が国の天然記念物に指定されました。
なぜ、珍しい花々がこの山にだけ咲くのか?
その理由として、この地域は夏の間濃霧に覆われやすく、気温が上がらないこと
が挙げられます。
もう一つは、アポイ岳そのものが「アポイ岳」という特殊な岩石で
出来ている、ということです。
「かんらん岩」は普通の植物の成長を妨げる働きがあり、それに
適応できた植物だけが生き残ったのです。
襟 裳 岬
作詩 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎 昭和48年
( 写真は襟裳岬にある歌碑)
1 北の街ではもう 悲しみを暖炉で
もやしはじめてるらしい
わけのわからないことで
悩んでいるうち おいぼれてしまうから
だまりとおした歳月を
ひろい集めて暖めあおう
えりもの春は何もない春です
2 君は二杯めだよね コーヒーカップで
角砂糖をひとつだったね
すててきてしまった
わずらわしさだけを くるくるかきまわして
通りすぎた夏のにおい
想い出して なつかしいね
えりもの春は何もない春です
静かに笑ってしまおう
いじけることだけが
生きることだと かいならしすぎたので
身構えながら 話すなんて
ああ おくびょうなんだよね
えりもの春は何もない春です
寒い友だちが 訪ねてきたよ
えんりょはいらないから 暖まってゆきなよ
開始された緑化事業は、やはりえりも岬の強風によって困難を呈しました。
緑化の第一歩は、砂漠化した大地に草をはやすことです(草本緑化)。
しかし、草花の種をまいても強風に飛ばされ発芽しません。
せっかく発芽しても根付く前に飛ばされてしまいます。
何年もの試行錯誤の結果、海岸に打ちあがっている雑海藻を種をまいた
上に覆い、種が飛ぶのを防ぐことに成功しました。
また、この雑海藻は発芽後の良い肥料ともなり、緑化が一歩前進しました。
しかし、草本緑化後に行う木本緑化でも、植樹した苗木がなかなか育たず、
何年もの試行錯誤の結果、北海道には自生していないクロマツが適していることが分かりました。
また、植樹した苗木を囲む防風柵も、他の地域で使用するときよりも狭い間隔で立てることで強風をしのげることがわかりました。
このような様々な試行錯誤を経て、50年近く経った現在、クロマツの林は、中に入ればそこが「道路脇の植林された林」であることを忘れさせてくれるほど、豊かに成長してきました。
植林の成果が上がるとともに、海には回遊魚が戻ってくるようになり、コンブなどの海藻類も採れるようになりました。
今後は、クロマツ以外の元々この土地に生えていた種類の木々を植え、植林前の豊かな植生へと戻していくことが課題となっています。
襟裳岬
風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ…。
昭和36年に島倉千代子が『襟裳岬』を歌い、全国で大ヒットしました。
その後49年に森 進一が同名異曲の『襟裳岬』を歌いこれも大ヒット
襟裳岬は広く知られることになりました。
北海道の背骨と言われる日高山脈、その先端は、60mの断崖と2km
の岩礁を連ねて太平洋に沈み込んでいます。
岬の沖は千島海流と日本海流が交錯し、多種にわたる暖流、寒流の魚
たちが群れ、世界有数の漁場となっています。
日本最大のゼニガタアザラシの生息地でもあります。
空と海が青々とした晴天の日も、灯台の霧笛が鳴る深い霧の日も、
毎年たくさんの観光客が訪れます。
えりも岬はかつて、
カシワやミズナラ・シラカバなどを主とする広葉樹の原生林で
覆われていました。
しかし、明治以降、燃料としての木々の伐採や
牛・馬・綿羊の放牧などによって,原生林は切り開かれ
えりも岬特有の強風にさらされ、大地は砂漠化してしまいました。
砂漠化した大地からは、強風によって赤土が舞い上がり、
その赤土は、海上10km沖合いにも達し、岬沿岸の海は黄色く濁りました。
海藻類は根腐れをおこして採れなくなり、回遊魚や沿岸の魚も減少しました。
集団移転さえ考えたほどでした。
そんな状況を脱するため、昭和28年、浦河営林署「えりも治山事業所」が開設され、
本格的なえりも岬の緑化事業がスタートしました