黄金岬
1956年(昭和31年)9月30日
美国郡美国町・積丹郡余別村・・積丹郡入舸村が合併し
積丹町となる。
黄金岬:積丹町美国の市街地から遊歩道で約10分。
美国港の先から海へ突き出した黄金岬へは遊歩道(410m)が
整備され、3カ所の入り口から展望台を目指すことができます。
展望台からは、青く澄んだ日本海と断崖絶壁が続く海岸線、
さらに美国の街並みも見渡せます。
海岸線は奇岩や絶壁が連なり勇壮な景観。
美国エリアでは見逃せないスポットが、ここ。
宝島
黄金岬の先にある美国のシンボル・宝島は、かつて大きな富をもたらしたニシン
の大群が押し寄せたことから、その名がついたといわれています。
近くに浮かぶ小さな島は、ゴメとも呼ばれるカモメが羽を休めている姿に似ているため、
ゴメ島と名付けられています。
ソーラン節のふるさと
明治から開拓が始まった積丹町の開基は宝永三年(1706年)。
北海道の中でも古い歴史を誇り、その歴史を誇る上で忘れては
いけないのが、紺碧の海に大挙して押しよせた鰊の大群です。
”ヤン衆”たちは魚影を追い続け、数々のドラマを生んだ
彼等の代表作として「ソーラン節」が誕生しました。
ソーラン節とは、あふれんばかりの鰊でいっぱいとなった網を引き揚げ
る時の「力入れ」の唄であり、彼等によって北海道はもとより、全国へと
広がっていきました。
一般的に知られているソーラン節(沖揚げ音頭)とは
「正調鰊場音頭」を構成している四編の中の一編だということは以外と知られていませんが、
他の三編と合わせて鰊漁の一つの物語として、全盛時をうかがい知ることができます。
1.船漕ぎ音頭
船着き場から網の仕掛けてある猟場を往復する時に唄われるもので、急ぐ場合やのんびり
漕ぐ場合、船着き場に後ろ向きに船を付ける場合で音頭が異なります。
2.網起し音頭
網が鰊に乗り出してから枠網に落とし込むまでの、もっとも気合いの入った作業歌です。
3.沖揚げ音頭(ソーラン節)
網起しによって集められた鰊を船着き場に陸揚げするため、大きなタモ(網)で鰊をくみ上げる時
に歌うことから、名付けられた歌。
4.子たたき音頭(イヤサカ音頭)
陸揚げの終わった枠網にはたくさんの数の子がつき、編み目をふさいでいるため、これを竹の棒
で叩いて、落とすときに歌う音頭です。
古くは御冠岬・オカムイ岬(ともに「おかむいみさき」と読む)とも呼ばれた。
この付近は古くから海上交通の難所として知られており、神罰を恐れて
安政3年(1856年)までは女人禁制の地であった。
の首長の娘チャレンカの嫉妬心が、女を乗せた船を転覆させたことから、
岬一帯が女人禁制となった。
チャレンカはやがて岩と化して神威岩となったと言い伝えられている。
また、日露戦争時にはロシア艦隊の来寇に備えて監視所が設けられていた。
で徒歩20~30分ほど。
が起きたのを契機に、1914年(大正3年)に着工した。
唱えて鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向が分かり工事が再開できたと言われている。
このため、途中で2度折れ曲がっており、内部は真っ暗である。
念仏を唱えながら通ると安全であると言い伝えられている。
海岸線一帯はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されています。
小樽から江差を結ぶ「追分ソーランライン」と呼ばれる幹線道路。
かつては北海道の経済的中心であった小樽を起点に、難所で名高い
積丹半島を経て江差へと至るその道には、ニシン漁で賑わった当時の
面影が残っています。
なかでも、積丹半島の歴史には数多くの伝説や逸話が伝えられており、
北海道を代表する民謡「ソーラン節」は、ニシン漁で賑わった
積丹町が発祥の地と言われております。
おこなっていましたが、財政難の理由などから商人に交易を委ねることにしました。
その後、商人が漁業を請け負う制度が発達し大いに栄えていきましたが、
江差地方が凶漁に見舞われたのをきっかけに、ニシン漁が日本海側をどんどん北上し、
積丹半島もニシン漁のメッカとして大いに栄えていきました。
幕末のころになると、積丹半島各地でも大網の使用が広く許可され大量にニシンが
漁獲されました。
経済の発展と共に人々の往来が著しく増加し、また、物流のための海路や陸路が
整備されていきましたが、百万石のニシン漁で沸いていた積丹半島では依然として
海上輸送がメインでした。
大正期に入り大小数多くのトンネルが完成し、積丹半島も馬車交通路の完成を迎えました。
をさっていきましたが、戦後になってニセコ・積丹・小樽国定公園の指定を受けたのをきっかけに、
一躍観光地として脚光を浴びるようになりました。
近年、積丹半島の神威岬が北海道遺産に認定され、より多くの観光客が積丹半島を訪れる
こととなりました。
一穂は、渡島管内の木古内町に生まれ、7歳から古平で育った。
上京して1926年(大正15年)に出版した処女詩集「海の聖母」で
詩壇に衝撃を与え、若山牧水や北原白秋らとともに親交を深めた。
また、一穂は、児童文学との関わりも深く、1922年に童話「ふる郷へ」
「古時計」を発表するなど、その本格的な文筆活動の始まりは児童詩へ
の執筆でした。
専門詩人の間で、吉田一穂ほど畏怖されている存在はありません。
ただ孤高で俗流詩人と肩を並べることを好まず、ジャーナリズムをも蔑視してきた。
あゝ麗はしい距離(ディスタンス)
適応症
神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、
うちみ、くじき、痔疾、慢性消化器病、慢性皮膚病、病後回復期、
疲労回復、健康増進、虚弱児童、慢性婦人病、冷え症、きりきず、
やけど
禁忌症
急性疾患(特に熱のある場合)、悪性腫瘍、重い心臓病、呼吸不全、
腎不全、出血性疾患、活動性の結核、高度の貧血、
その他一般に病勢進行中の疾患、妊娠中(特に初期と末期)
料金
大人(高校生以上)500円
小人(小・中学生)200円
電話番号 0135-42-2290
営業時間 AM10:00~PM9:00
休館日 第1・3金曜日
(祝日にあたる場合は営業致します)
駐車場 70台収容
を結ぶ国道229号線の豊浜トンネル(延長1086m)で、
最大長さ70m、最大幅50m、最大深さ13m、
体積約11000立方メートルの岩盤が崩落した。
この事故で、札幌雪祭りや小樽市へ向かう乗客を乗せた
路線バス1台、乗用車2台がトンネル内で押し潰された。
このトンネルは海岸線に沿って山肌を削るように造られており、
岩盤除去作業が思うように捗らず、二次災害の可能性から救助
が遅れた。
その間、管理している建設省(当時)の現場責任者らに、被害を
受けた家族等が「早期救助」を訴えて詰め寄るなど現場は騒然。
結局、事故から1週間後に20人全員の死亡が確認されるという惨事となった。
このトンネルは、以前から壁に亀裂が走っていたり、石が落下していたため地元住民
は崩落の危険性を危惧していた。が、対策前に尊い命の犠牲を出してしまった。
下ヨイチ運上家
(しもよいちうんじょうや)
下ヨイチ運上家(しもよいちうんじょうや)とは、
松前藩が設置した運上屋である。
運上家とは場所請負人によって設置された施設で、
和人とアイヌ人との交易の場所である。
現存する運上家は旧下ヨイチ運上家一箇所のみである。
松前藩の蝦夷地支配の遺構として、昭和46年重要文化財に指定され、
一帯の敷地は昭和48年)、国の史跡に指定された。
運上家の前浜は狭小な砂浜と岩礁地帯からなる環境で、鰊の産卵
場所として適当な場所である。
また、背後にモイレ山が迫っている。
運上屋を設けたのは、積丹から小樽方面に行くための要所であり、
関所としての役割も果たせる位置であるからであろう。