函館 湯の川温泉発祥の地は湯倉神社 2
所在地:函館市湯川町2丁目28番地1
一説では、湯倉神社があるこの丘はアイヌのシャチ跡(砦跡)ではなかったとも
言われております。日高の静内に全市を見渡せるシャクシャインのシャチ跡があ
ります。湯倉神社の境内に立ちますと重なる印象が幾つかみつかります。
確かな話しではありませんが、シャチ跡として思い当たるものがあります。
この道南には14世紀以降に和人の流亡者の移住がさかんで、彼らは渡(わたり)
とよばれていました。彼らは志海苔<現函館空港付近>から今の上ノ国町までの
海岸線に12の館を築いていました。
志海苔にあったのが、志苔館(古くは志濃里館(しのりたて)・小林良景館主)で、
アイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点でした。
この志海苔という地名は、松倉川から更に東に志海苔川という細流が流れており、
かつて、この川砂から砂鉄がとれておりました。そのために和人の鍛冶屋村があり、
農具、工具、刀などを打っており、製鉄技術を持たなかったアイヌは鉄製品な
どを交易していました。
康正2年(1456)、アイヌ少年が志濃里(志苔)の鍛冶屋にマキリ(アイヌ刀)を
注文します。ところが、できあがったマキリは粗末で値段も法外なものでした。これで
口論となり怒った鍛冶屋が、斬れるか斬れないか試してやるといって、その小刀で
アイヌ少年を刺し殺してしまいます。
これが誘因となり、アイヌと和人によるコシャマインの戦いが始まり、志苔館はコシャ
マインの戦いでアイヌに攻め落とされてしまいます。
この刺殺に触れて、司馬遼太郎は「この鍛冶のいやらしさに、当時からこんにちに
いたる「和人」というものの象徴を見る印象がある」と「北海道の諸道」で書いています。
ともあれ、湯倉神社のキコリの話しが1453年ころ、アイヌ少年が殺されたのが
1456年となるので、この丘に当時アイヌの砦があったのかも知れません。
ちなみに、コシャマインの戦いは1458年(長禄2年)に、だまし討ちでコシャマイン父子
が上磯町七重浜付近で射殺されアイヌ軍は崩壊します。この党首が後の「松前藩」の
始祖となる花沢館(上ノ国)の客将武田信広でした。
所在地:函館市湯川町2丁目28番地1
松倉川というのは函館市街地の東部(飛行場寄り)を南に流れ、湯の川温泉付近で支川の湯の川、鮫川を合わせ、津軽海峡に注いでいます。この川の河口に旅館・ホテルが22軒、公衆浴場が4軒という湯の川温泉街となっています。
一般観光客の入り口となっているのが市電の終点「湯の川駅」ですが、ここに小高い丘があり上ると「湯倉神社」があります。
湯倉神社のサイトによると、
「伝説では享徳二年(1453)頃、一人のきこりが家に帰る途中に小高い丘(現在の湯倉神社のあたり)で一休みをしていたところ、沼沢地で湯気が立っているのを発見し、近づいて手を入れてみたところ湧き湯でした。その後、きこりが病気になり腕の関節の痛みがひどくなったとき、湧き湯のことを思い出し、湯治をしたところ、程なくして病気が治りました。きこりはそのお礼にと薬師如来を刻み、小さな祠(ほこら)を建てて安置したのが、湯倉神社の起源であり、今日の湯の川温泉の始まりであります」
函館美術館開館25周年記念として「没後40年 田辺三重松展」が開催
されています。会期:2011年7月16日(土)~9月19日(月)。
北海道でも人気がある田辺三重松は、やはり函館では「洋画家田辺」は
絶大なのでしょう。私が30年ほど前に函館の知り合いの家に泊まった時に、
田辺三重松の絵がありました。聞くと「家にしばらく泊まっていたんだよ」と
いうことでした。
今回の企画は油彩画約60点のほか素描・下絵原画等の未公開作品も展
示しております。20数年前に、札幌の北海道立近代美術館で田辺三重松展
が開かれておりましたが、これだけの作品を鑑賞できる機会はそうはないでしょう。
すでに田辺三重松については、2009年2月22日に紹介していますが、
今回は彼の生い立ちについて触れます。
明治30年(1897)函館区大黒町95番地(現在の弁天町5番7号)に、
母、田辺ヨシ(当時40歳)の子として生まれた。父親は、本願寺函館別院
で布教伝道につとめていた僧侶、松原深諦(まつばらじんたい)当時45歳である。
誕生のいきさつは、ヨシの夫の死後、呉服店の女主人として切り盛りをし
ていましたが、函館に来た松原深諦と恋仲になります。ところがこの事実は、
周囲にもあまり知られないままに、三重松は親戚の子として生まれ田辺家に
養子にきたとされていました。
松原は、三重県梅戸井村にある真宗本願寺派の光明寺という由緒ある寺の
嫡男であり、後には本願寺本山の執行長にまでなった高僧である。この布教
僧とヨシの結婚は、周囲の反対にあってかなわず、二人は引き離されるよう
にして三重県に帰った。
三重松という名前は、この三重からやってきた松原深諦をしのんでヨシがつ
けたものである。
函館中華会館
住所:北海道函館市大町1-12
公開:一般公開は、入場者の減少や建物の老朽化、日中関係が一時悪化したことなどを
理由に2005年から休止。2011年7月5日から8月16日まで期間限定で内部を開館し
ています。四川大地震の被災者の義援金に充てる目的。入館料大人600円。
安政元年(1854)ペリー艦隊の来航により日米和親条約が結ばれ下田と函館が開港
され世界との交流が始まります。
この時、函館に来航したペリー艦隊の通訳が中国人「羅森」でした。
安政5年の日米修好通商条約により貿易が本格化し、外国人の居住が認められます。
欧米商人に雇われた中国商人は買弁や番頭などの肩書で函館に来航し、海産物取引
などの仲介業務で増加していきます。
完治元年(1865)に海産物取引が自由化され、長崎海産物取引独占体制が打破され
ると、函館も輸出が可能となり、欧米から独立した中国商人は直接函館に来航するよう
になりました。
・日米和親条約(安政元年)の外国人の居住規定
下田は、港から7里(28キロ)が遊歩区域。
函館は、5里(20キロ)。
・日米修好通商条約(安政5年)の外国人の居住規定
居留する外国人は条約で決められた開港場に居住することが認められる。
下田は、港から10里(40キロ)が遊歩区域。
函館は、10里(40キロ)。
函館華僑の人々の会合場所であった「三江公所同徳堂」が、1907年(明治40)の大火で
焼失したため、中国から設計責任者や工人達を招き、1910年(明治43)に同じ場所に煉瓦
造りで純中国式建築物が建てられました。中央に「三国志で知られる関羽」が、祀られてい
ます。関羽は商売繁盛の神様として中国全土に祀った「関帝廟」です。
日本に関帝廟があるのは、横浜中華街と函館の中華会館だけです。
壁に赤レンガを使用し、釘を一本も使わない清朝末期の建築様式で、登録有形文化財及び
函館市景観形成指定建造物に指定されています。
「鷲ノ木史跡公園」
京都の鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争で旧幕府軍は関東から東北に追い詰め
られていきます。榎本武揚率いる旧幕府海軍と脱走艦隊は、明治新政府とは別の
独立政権「蝦夷共和国」設立を夢見て北海道に向かった。北海道に上陸したのが
噴火湾中央部の鷲ノ木村。ここから箱館戦争が始まりました。
鷲ノ木海岸は現在の茅部郡森町にあり、今も「鷲ノ木史跡公園」として残っております。
「明治元年(1868)旧10月20日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)
率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪30cm、北西の強風で波は荒れ
(夕バ風)、暴風雪であったといわれる。
榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか7艦(回天(かいてん)、蟠龍(はんりゅう)、長鯨(ちょう
けい)、神速(じんそく)、鳳凰(ほうおう)、回春(かいしゅん)、大江(おおえ)で、このと
きの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人
以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の鷲ノ木村は戸数約150、人口約800で茅部街道の要所でもあり、箱館への
交通も開けていました。
21日、人見勝太郎以下32名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえて官軍と
撃戦となり、箱館戦争へと展開していく事になります。開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍
の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯の崎台場
(現鷲ノ木)などが構築されました。
こうして、明治二年五月の、函館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、
また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。
今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑
や慰霊碑などがあります。」
平成二年七月三十日
森町教育委員会
写真は、五稜郭から写した「五稜郭タワー」です。
箱館奉行所は、現在の元町公園に置かれていた江戸幕府の役所です。
今は、公園内に「箱館奉行所跡」の杭があるだけです。
安政元年(1854)の日米和親条約により、箱館と下田が開港されますが
この箱館を治めるために幕府が設置した「箱館奉行所」では、港湾から
近く防備上不利であったことなどから、内陸の亀田の地に移すことにな
誰が五稜郭を作ったのか?
蘭学者の武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)に新しい要塞の設計を命じます。
「武田は緒方洪庵塾に入門し、洋学諸術を学び、ペリー艦隊が浦賀に来航した際
には佐久間象山の門下にいた。様式軍学者として製鉄、造船、大砲、築城などに
明るく、箱館開港後は箱館諸術調所の教授として活躍していた」
安政4年(1857)から五稜郭の築造が始まり、7年後の元治元年(1864)に役
所建物などがほぼ完成。箱館山麓の奉行所が移転して五稜郭の中で業務が開始さ
れ、蝦夷地の統治や開拓、開港地箱館の諸外国との交渉など幕府の北方政策の拠
点となりました。
明治維新後解体!
大政奉還により明治新政府の役所に引き継がれますが、戊辰戦争最後の戦いと
なる箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年(1871)に開拓使に
より奉行所庁舎を含むほとんどの建物が解体され、大正時代以降は公園として一
般に開放されていました。
函館市では、五稜郭内にあったが箱館奉行所が失われたままでは本来の姿が理
解されにくいことから復元の整備を進めておりました。史実に忠実な復元が進み
平成22年に140年の時を超えて箱館奉行所が再現されました。
但し、復元範囲は当時の1/3あたります。
久生 十蘭 (ひさお じゅうらん)
本名: 阿部 正雄、1902年4月6日- 1957年10月6日 小説家、演出家。
函館市出身。推理もの、ユーモアもの、歴史もの、現代もの、 時代小説、ノンフィクションノベルなど多彩な作品を手掛け、博識と技巧で「多面体作家」「小説の魔術師」と呼ばれた。
旧制函館中学(現函館中部高等学校)を中退し東京の聖学院中学に移るが、そこも中退。1920年に帰郷して函館新聞社に勤務し、22年演劇集団「素劇会」に参加。1923年同人グループ「生社」を結成、1924年に同人誌「生」に8編の詩、1926年に処女小説「蠶」、処女戯曲「九郎兵衛の最後」を発表。また函館新聞の文芸週欄の編集をしながら、同欄で作品を掲載。
1928年に上京し、岸田國士に師事、岸田主宰の「悲劇喜劇」の編集に従事。
1929年から33年までパリに遊学、パリ物理学校でレンズ工学を2年、パリ市立技芸学校で演劇を2年研究しシャルル・デュランに師事する。帰国後、築地座で舞台監督を務める。
函館中学校の後輩である水谷準が『新青年』(博文館)の編集長を務めていたことから、同誌に、1933年に著名人探訪記事、トリスタン・ベルナールの翻訳、1934年にパリ滞在の経験を元にコン吉・タヌ子を主人公とした「八人の小悪魔」を始めとする連作集(三一書房版全集で『ノンシャラン道中記』に改題)、1935年に初の本格的な小説『黄金遁走曲』などを発表。当初は本名を用いていたが、1936年の『金狼』から久生十蘭の名義を使用し始めたほか、「谷川早」「六戸部力」「石田九万吉」の筆名を使った。
1936年には、岸田の推薦で明治大学文芸科講師を務め、演劇論を教えた。1937年、岸田を発起人として結成された文学座に参加、文学座研究所の講師を務め、内村直也『秋水嶺』を岸田と共同演出。1937年にはフランスの探偵小説、レオン・サジイ『ジゴマ』、ピエール・スーヴェルト&マルセル・アラン『ファントム』、ガストン・ルルー『ルレタビーユ』などを『新青年』別冊付録として翻訳、この原稿料で軽井沢千ヶ滝に別荘を購入、ここで『魔都』を執筆した。
1940年に岸田が大政翼賛会文化部長に就くと文化部嘱託となり、翼賛会宣伝部で「村の飛行兵」執筆。1941年に『新青年』の依頼で中支に従軍。1942年、大佛次郎夫妻の媒酌により三ツ谷幸子と結婚。1943年に海軍報道班として南方に派遣され、一時行方不明も伝えられたが、1944年帰国。同年銚子へ疎開、1945年会津若松に疎開、終戦後46年に銚子に転居、47年から鎌倉の材木座に住んだ。
1951年『朝日新聞』に『十字街』連載。1957年6月に食道癌により板橋の癌研究院に入院し、10月に自宅で死去。
筆名の久生十蘭は、しゃるる・デュランのもじりとも、「久しく生きとらん」、「食うとらん」の意とも言われるが、いずれも真偽は定かでない。
受賞等
1939年 『キャラコさん』で第1回新青年読者賞を受賞。
1952年「鈴木主水」により第26回直木賞を受賞。
1955年「母子像」(英訳 吉田健一)がニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙主催の第2回国際短篇小説コンクールで第一席に入選。
直木賞候補に、11回「葡萄蔓の束」、15回「三笠の月」、16回「遣米日記」、17回「真福寺事件」。
北海道内のおもな義経伝説 9
⑨函館市 船魂神社・義経腰掛の松
津軽半島まできた義経一行。
風波が強かったので、船魂明神に祈り、 無事蝦夷に辿りついた。
この辺りは伝説がとても多く、義経が腰を掛けた松や、義経が弓で岩をつついて
湧出させたという湧き水もあった。
船魂明神に助けられた義経 (函館市、日和坂上)
義経一行が難所といわれる津軽海峡を渡って北海道へ来たのは文治5年(1189)。
津軽半島の三厩まできたものの風波が強い。
そこで信心深い義経は、船魂明神を一身に祈り、 無事渡海することができたそうです。
明神さまをまつる船魂神社は、最初は観音堂といわれており、
鰐口に応永元年(1394)と書かれていますから、 義経来道200年ほど後の建立になります。
神社横には穴があり、函館山の裏側の断崖絶壁、
山背泊寄りの穴澗に通じているともいわれています。
穴澗には多くの伝説が残され、 その主は大蛸、鰐鮫、白蛇などといわれ、 それをまつった
竜神さまがあると伝えられています。
神社境内には、 義経が弓で岩をつついて湧出させたといわれる湧き水が あったようですが、
今は枯れています。