忍者ブログ
2024 05
≪ 2024 04 1 2 3 45 6 7 8 9 10 1112 13 14 15 16 17 1819 20 21 22 23 24 2526 27 28 29 30 31 2024 06 ≫
*admin*entry*file*plugin| 文字サイズ  

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



北光社移民団(訓子府町)

1897年(明治30年)5月、訓子府町と北見市に高知県からの開拓者が入植しました。

この開拓者が「北光社移民団」です。北光社社長は、坂本龍馬の甥になる坂本直寛で、移民団は、約110戸と言われております。

 

高洋丸

「北光社移民団」を乗せて、高知県の浦戸港を出発し、約1か月後に、 網走に入港した船が高洋丸です。

高洋丸は、原名は、Siegmund。1889年(明治22年)ドイツのキール港で建造されました。
大阪の商船会社(会社名不明)が、1896年に購入。翌年には帝国商船(株)に譲渡され、この時、船名も高洋丸に変更。さらに1900年には秋田汽船 () に売却。1903年には船籍港である函館に登録されましたが、1905年2月、津軽の権現崎(小泊崎)近くで硫黄を積載のまま座礁してしまいました。

 

坂本直寛

土佐(高知県)を郷里とする坂本龍馬ですが、今、同県内に「坂本」姓を名乗る龍馬の子孫はいないそうです。
それは、龍馬家の一族が北海道の浦臼町に移住したためです。
龍馬が生前夢見た北の新天地開拓は龍馬の姉千鶴(ちづ)の次男(龍馬の甥)で坂本家本家第5代当主坂本直寛(なおひろ)によって実現します。
直寛は1896年(明治29年)北海道・北見開拓の視察をする途中、浦臼の聖園農場に立ち寄り北見地方開拓の協力を求めました。この事により浦臼町との関係が始まります
ここには同じ高知出身でキリスト教を信仰する武市安哉(あんさい)(自由民権運動者・代議士)が、信仰と教育による理想農園を作ろうと入植したものの2年前の12月2日に青函連絡船にて脳溢血のため急死していました。
直寛はこの農場を支援しようと1897年5月に一旦北見に入植しましたが、仲間に後を任せ翌1898年(明治31年)に妻と4人の子どもを連れて浦臼の聖園農場に入植しました。
聖園教会での伝道と青年の指導に励み、当時の大洪水の時などには、知人の板垣退助らに陳情し資金を出させ災害救済に貢献しています。

PR


訓子府町(くんねっぷちょう)

5,726人(人口、2009630日)

訓子府町は、網走支庁管内の常呂郡(ところぐん)にある町。c5dd41a6.gif

町名の由来は、アイヌ語の「クンネプ」(黒いところ、やち川にして水黒し)。


明治2年に蝦夷地という呼び名を北海道としこの地方は北見国常呂郡
となり、明治30年に北光社移民団の内13戸が、オロムシ(現在の大谷
地区)に入地したのが訓子府町
の定住のはじまりです。
明治44年に国鉄網走本線が開通し、訓子府駅が開業されると、辺境の
地であった訓子府もにわかに活況をしめしはじめ、新しい農村への大き
な躍進の時代を迎えることになりました。
大正4年、野付牛村に1級町村制が施行され、今の訓子府は置戸村の
一部として分村独立し、さらに大正9年、置戸村から独立して訓子府村
となり、開拓者の入地から23年を経て年来の宿願が達成されました。

北光社とは?
明治30年5月、訓子府町と北見市に高知県からの開拓者が入植しました。

この開拓者が「北光社移民団」です。北光社社長は、坂本龍馬の甥になる坂本直寛で、移民団は、約110戸と言われております。

 

訓子府町は、北見市より車で25分程。オホーツク海の影響が少なく、典型的な内陸気候です。
農業を基幹産業とし、のどかな田園風景に包まれております。
特産品のメロンは、昼と夜の寒暖差が激しい気候から、糖度が高く風味も良いと評判。7月の第3土・日曜日には、常呂川河川敷において「訓子府ふるさとまつり」、2月の第1土・日曜日には「訓子府さむさむまつり」が開催されます。
 5a48bf18.jpeg

また、町内には泡風呂、サウナ、トレーニングコーナーを備えた100%天然温泉の「訓子府温泉保養センター」。芝の管理は管内トップクラスのパークゴルフ場。ウォータースライダーのある温水プール「KAPPA」等の施設があります。
 なかでも「訓子府町レクリエーション公園」は町内外からたくさんの家族連れでにぎわっております。

野球場、ソフトボール場、スキー場、スケートリンク、遊具を備えたちびっ子広場、展望台、バーベキューハウスなどの施設を有し、400本以上のエゾヤマザクラ、4000本のエゾムラサキツツジ、1.3ヘクタールのシバザクラ等が多くの花見客を楽しませております。



滝上町

3,212人(人口、2009630日)0ac1f846.gif

 

滝上町(たきのうえちょう)は、網走管内の北部に位置し、上川管内
に接する町。

町名は、渚滑川の滝の上手にある事に由来する。

明治38年 高知県人西森亦吾氏が上渚滑原野52線に入地開墾
に従事。明治40年初めて「滝上」の地名が北海道地図に現れる

 

滝上町は周囲を山に囲まれ、滝や渓谷の多い美しいまち。

シバザクラは、1957年ごろから滝上公園に植えられ、現在は
10万平方メートル(甲子園の7倍の広さ)の丘一面に花が咲く大群落
となりました。

50044fd8.jpeg5月から6月に開かれる芝ざくらまつりでは、花のじゅうたんを空から
眺めるヘリコプターの遊覧飛行など、楽しさいっぱいです。

また、ハッカの生産地としても知られています。
現在はわずか10ヘクタールほどの畑でしか作られていないが、ほか
に栽培している地区がないために、全国の95%のシェアを誇る。

 



平成2年から人いきいき、
町わくわく「童話村」たきのうえをコンセプトとしたまちづくりを進めています。

この「童話村」は都会のテーマ・パークのような、すでにある童話を手本としたものではありません。

逆に私たちのまちを舞台とした童話が創られるような、素朴でちょっぴりお洒落なまちづくりを目指しております。だから、童話村の豊かな自然は、いつまでも守り愛され続けてゆきます。

一度訪れた人が10年後、20年後‥‥に再び訪ねてくれた時に、あの時よりもずっと美しいまちになった、と言われるために。



遠軽町(えんがるちょう)

22,821人(人口、2009630日)2370b8a0.gif

遠軽町(えんがるちょう)は、網走支庁管内の中央に位置する、商業・
林業・農業が盛んな町。

町名の由来は、町のシンボルである瞰望岩(がんぼういわ)を指すア
イヌ語「インガルシ(見晴らしの良いところ)」

合併により網走支庁管内では美幌町を抜いて最大の町となった。

中標津町、新ひだか町などと並び、地域の中核としての役割が
一層期待される。

 

遠軽の歴史は、明治291月、仙台の日本基督教会、東北学院の
創立者の一人である押川方義氏、東北学院神学部出身の信太寿之氏
などによって「北海道同志教育会」が創立されたことからはじまりました。

キリスト教主義の私立大学を設立するという高遠な希望に燃えるキリスト教徒の理想郷建設に端を発していることから、一般的な北海道植民事業とはその趣を異にしています。
当時、遠軽は学田地と呼ばれ、湧別原野第4小作地として解放されたところで、明治29年に押川方義氏ほか4名への貸付予定地として許可されました。明治3057日、最初の移民30戸、121人が学田に入植したのが遠軽町開発の基礎となった貴重な歴史のはじまった日です。

 

ganbouiwa_img1.jpg地上から約78メートルにそびえる瞰望岩(がんぼういわ)は、アイヌ語で「インガルシ」、見晴らしの良いところという意味です。えんがるの町名はこの言葉に由来するほど、瞰望岩は町のシンボル的な存在で、町のあらゆる所から望むことができ、その場所ごとに表情が変わります。

アイヌの人々の古戦場となったドラマチックな伝説もあります。頂まで登ってもわずか数分、素晴らしい眺望が広がります。北海道自然百選にも選ばれました

雄武町(おうむちょう)

5,004人(人口、2009年6月30日)

雄武町(おうむちょう)は、網走管内の北部に位置する町。f54ddbef.gif

町名の由来は、アイヌの「オムイ」(河口が塞がるの意)から。

大正4年紋別郡雄武村、幌内村、沢木村が合併、二級町村制、
紋別郡雄武村

 

 オホーツクの海岸線(32Km)沿いに伸びる雄武町は、沢木、雄武、
元稲府、幌内の4つの港をもつ港町でメジカ(秋サケ)、ホタテ、毛ガニ
などの海の資源が豊富なところであり、育てる漁業にも力を入れてい
ます。
また、酪農業も盛んで大規模草地をはじめ、グリーンの草地には乳牛、
そして肉用牛の育成牧場があちこちにあり、自然ののどかさと素晴らしさを味わう事が出来るところです。
 
 

d0f157c7.jpeg  日ノ出岬

  オホーツク海がオレンジ色に染まる日の出で知られる。岬にはキャンプ
  サイトやコテージ、日の出岬ホテルが設置されている。アトピー性皮膚
  炎に効果があるとされ、遠方から訪れる人も多い。

  
日の出岬を舞台として開催されるサンライズ・ケープ・カーニバルにはこ
   の日のために、各地から集まってきた車と人、キャンプをする人たちで日の出岬がいっぱいになります。
 



西興部村(にしおこっぺむら)

1,169人(人口、2009年6月30日)

西興部村は網走管内の北部に位置する村で興部町の西部、内陸部に位置する。

網走支庁管内では唯一の「村」。nisiokoppemura.jpg

 

紋別市から内陸に約40分走ると突然、山々に囲まれた夢の国が現れる。

村内の主な建物はシンボルカラーのオレンジ色に統一され、遠目からで
もはっきりとわかる。


 西興部村は酪農と木材のまち。
天塩岳道立公園のウエンシリ岳を始め、それに連なる山々の豊かな森林
資源を活用した野外遊戯施設の整備や木材の加工をすすめている。
基幹産業は酪農。農業に就労する者の数は人口の1割もいないが、近年は
1戸あたりの規模が大きい農家の割合が高くなっている。
人口に占める高齢者の割合が非常に高いため就労者は人口の半数ほど。
村内の主な企業は土建業に椎茸栽培工場にギターのボディを製造する工場である。
特別養護老人ホーム、知的障害者福祉施設があるためそれらに就労する者の割合が高い。


                                          474734dc.jpeg
村営の施設には森の美術館「木夢(こむ)」や森の中のホテル「森夢
   (リム)」、マルチメディア館「IT夢(アトム)」、道の駅「花夢(かむ)」
    など、「夢」がつけられ、夢を大切にする村のメッセージが感じられる。
    また、西興部村長が考案した、村自慢のラーメンやカレーなどもあり、
    小さ くともきらりと光る個性的なまちだ。

    鉄道は村内を通らない。かつては名寄本線が通っていたが、1989年
                                           に廃止されている。
上興部駅、西興部駅、六興駅、中興部駅があった。
                                           
現在、最寄りの駅は宗谷本線名寄駅。

 



興部町(おこっぺちょう)

4,383人(人口、2009年6月30日)55f9863d.gif

興部町は、網走管内の北部に位置する町。「おこっぺ牛乳」が有名。

町名の由来は、アイヌ語の「オウコッペ」(川尻の合流しているところ)から。

 

興部町は、宝永年間に松前藩の漁場として支配され明治22年に初めて、
沙留(さるる)に和人が定住、同31年に石川、高知、富山など各県より
入地者が来住して本格的に開発が進められました。

明治42年、雄武より字興部を、紋別より字沙留、ルロチの2ケ村を分割
併合して、興部村外2ケ村長役場が設置されました。

大正4年、北海道2級町村制が施行され興部村となり、その後、大正10年、
国鉄名寄線が全通し、農業、林業、漁業の飛躍的発展をみるに至りました。

大正14年、興部村から西興部村を分村したが、農林漁業の発展とともに商工業も次第に発展し、昭和26年に町制が施行され、今日に至っています。

 

ph_kan_momo_mil.jpgモーモー城と風車

興部町のシンボルとなっているお城のような建物、正式名称は『オホーツク農業科学研究センター』です。

ここでは、各種研究や分析などを行っています。
隣接されている風車は、『興部町風力発電所』。「自然と共生するする地域社会の形成」を目標とし、平成13年3月26日に完成しました。この景色を写真に撮す人の姿もたくさん見かけます。丘から眺める夕焼けや夜景はとても綺麗。



上湧別町(かみゆうべつちょう)

5,528人(人口、2009年6月30日)

 

上湧別町(かみゆうべつちょう)は、網走支庁管内中部に位置する町。d8f55da3.gif

町名の由来は、
 旧湧別村分割時に湧別川の上流側の位置にあったことから

 
上湧別町の歴史はオホーツク海にそそぐ湧別川河口からはじまる・・
明治当初、未開の地であったこの地域にわずかの和人が住み着き、
先住民であるアイヌの人たちと共に、漁業や狩猟、そして農場を営ん
でいた。
本格的に開拓の鍬が入ったのは、明治30、31年。全国より北辺の開
拓と警備の任務に志した屯田兵が移住し、総勢399戸の集落が築き
上げられ近代社会が発展していくことになる。

明治39年には湧別村が誕生。明治43年に分村し「上湧別村」が誕生(分村当時1,230戸5,833人)。
その後、鉄道・名寄本線が大正11年に、昭和28年に湧網線が全線開通し、交通の要衡として発展してきた。
現在は相次ぐ鉄道の廃止を契機に本町の特性をさらに活かした観光産業を推進しながら21世紀を迎えました。平成17年10月には、「屯田兵村と兵屋」が道民が選んだ北海道遺産に認定されました。

 

555c9e8a.jpeg   北海道のオホーツク海沿岸、サロマ湖のやや内陸側に位置
    し、湧別原野と清流湧別川の恵みを受けた「花と緑あふれる
   自然豊かなまち」。
 主産業は、畑作と酪農による農業が中心。また、チューリップ
   の栽培、日本最北のリンゴの産地としても知られています。

 観光は、「チューリップ公園」が有名で毎年5月上旬から6月上
旬かけて「チューリップフェア」が開催され、多くの観光客で賑わいます。
また、平成14年4月には道の駅に指定された「かみゆうべつ温泉チューリップの湯」がオープンし、周辺の五鹿山公園(キャンプ場・パークゴルフ場・スキー場)やリバーサイドゴルフ場などと併せ、四季折々の自然を楽しめます。
 その他、漫画美術館や漫画本のある図書館が併設した「文化センターTOM(トム)」や屯田兵開拓史を綴った博物館「ふるさと館JRY(ジェリー)」など文化施設も充実しております。



湧別町(ゆうべつちょう)

4,838人(人口、2009年6月30日)

 

湧別町(ゆうべつちょう)は、網走管内中部、オホーツク海沿岸に
位置する町。08dd9093.gif

湧別とは、アイヌ語「ユペ」から出たものと言われ、鮫(鮭のこと)を意味し、
鮫が多いところから名付けられました。

明治30年、紋別村外9ヶ村戸長役場(現紋別市)より分離・独立し、
湧別村戸長役場を設置。

湧別町は北海道の東北部、オホーツク海沿岸のほぼ中央部に位置し、
東に道内で一番大きな湖であるサロマ湖を擁し佐呂間町・常呂町と接し、
西はシブノツナイ川を境として紋別市に続き、南は上湧別町・遠軽町・
生田原町に接し,北はオホーツク海に面しています。

日本を囲んでいる海の中で唯一寒流だけの海です。

1月下旬ともなるとシベリアのアムール川の水が凍ってできた流氷が南下し,北海道のオホーツク海沿岸に接岸します。
3月下旬には流氷が沖合に去る海明けを迎え,冬の間陸揚げされていた多くの漁船が豊かな春のオホーツク海の海の幸を求めて海に戻ります。そんな3月下旬の寒暖差の激しい日の早朝にはオホーツク海から昇る太陽が四角く見えることがあります。

 
4b90a000.jpeg

  鶴沼原生花園(サンゴ岬)

  湧別市街から龍宮台への道を右手にはいるとサンゴ岬の名で親
  しまれている鶴沼原生花園のサンゴ草群生地へ行くことができま
  す。
   駐車場から吊り橋を歩いて渡ると一面にサンゴ草(学名アッケシ
   ソウ)がじゅうたんのように広がっています。
   9月下旬から10月にかけてが見頃です。


置戸町 

3,463人(人口、2009年3月31日)f38fc19b.jpegを山に囲まれた常呂川の最上地域位置。

上流には鹿ノ子ダムがあり、山合いに「おけと湖」がある。

町の総面積の8割以上を占める。

丘陵地や平地では酪農、畑作が盛ん。

 

1915年(大正4年)4月 野付牛村(現北見市)から分村、置戸村となる。

置戸町(おけとちょう)は、網走支庁管内の常呂郡にある町。

町名の由来は、アイヌ語の「オケトウンナイ」(鹿の皮を乾かすところ)から。

 

農業(畑作)、酪農、林業が発達。

テンサイ、小麦、ジャガイモ、タマネギ、豆、メロンなどが生産される。

ヤーコンの市町村別生産量では全国一を誇る。

地元で産出される木材を生かした木工工芸品「オケクラフト」の生産も盛ん。

 

oke03.gif  鹿ノ子ダムとおけと湖

  昭和58年に完成した鹿ノ子ダムによってせき止められた周囲13.4キロ
  の人造湖。
   まわりを豊かな森で囲まれた大自然の中の湖。
 
ここは、野鳥や野草の宝庫と言われています。また、夏はヤマメやアメ
  マス、冬はワカサギやニジマスを釣ることができます。

 



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
HN:
上家二三夫
性別:
男性