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松前藩屋敷

最北の城下町・松前
  「松前の五月は江戸にもない」
とうたわれ、幕末には八千戸三万人の人口があり、仙台以北最大の都市といわれた。

 北前船が走る海の道を、産物や文化が行き来し、
 北の辺地に豊かで華やかな町が生まれたのです。

 松前藩屋敷に再現された江戸時代の町並みは、全部で十四棟。
珍しい海の関所「沖の口奉行所」、藩士の屋敷を再現した「武家屋敷」
商人の活躍が目に浮かぶ「廻船問屋」「商家」、
にしん漁に挑むヤン衆の声が聞こえてきそうな「番屋」「漁家」など見所はいろいろ。

 郷土の料理が味わえる「たべもの屋松前亭」のほか、
木工品づくりや桜押し花づくり、甲冑の着付けなどの体験メニュー以下
煎餅の実演販売など楽しさいっぱいのテーマパークです。
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 はるかに見えるのは龍飛岬。
 白神岬(しらかみみさき)   

 松前郡松前町にある北海道最南端の岬である。(国道228号線沿い)
津軽半島の最北端である竜飛崎より19.2キロメートルの距離があり、
そこを結んだ東側の地下に津軽海峡線が通過する青函トンネルがある。
青函トンネルが上陸するのは福島町。  


 白神で生まれ育った「村上清一」の文学碑が刻まれている。
 「海底下の列車のひびきも聞こえきて白神岬はさざ波の列」

  また、伊藤整も松前郡炭焼沢村生まれ。
「私の生まれたところは、北海道の最南端、白神岬のある白神村である。
そこは昔の松前藩の城下町であった福山町から近いところであった。
今、福山町は松前町と名前を変え、白神村はその字の一つとなった。
白神岬は灯台のある淋しい村で(中略)私はこの村で生まれたのだが、
何の印象も持っていない。
 しかしここは私の母の生誕地であり、今も親戚が何軒かあるので、
生まれ故郷はそこだという気持ちはある。」
                            (随筆「小樽・白神岬」より


 

安東氏(あんどうし)は、akita.jpg
陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した武家

アンドウの表記について諸史料では主として
鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、
室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている
例が多いことから、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを
「安藤」、以降を「安東」とする。

 

鎌倉時代には津軽地方を本拠地に御内人として
蝦夷沙汰代官職となり、室町時代には二家に分裂し
檜山郡と秋田郡に割拠したが京都御扶持衆に組み入れられたと
推定され、後に統合し戦国大名となった。

近世以降は秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となった。




 松前大館跡04d282aa.jpeg


松前大館は、室町時代に蝦夷管領の安東氏が築いたもので
1457年と1513年のアイヌ人との戦いで落城しましたが、
領主で蠣崎氏二代目の蠣崎光広が翌年の1514年に上ノ国
から移り、居館を改修することになります。

改修された居館は、徳山館と名付けられ
蠣崎氏による政庁とされました。

現在、松前城の500メートル程北に位置する場所に残る
松前大館の跡地は、未整備で荒れ放題です跡地を示す
石碑や看板すらありません。
【徳山大神宮は、松前大館の東麓に位置します。】

松前大館跡への行き方
JR函館駅~函館バス~松城バス停下車徒歩約20分~松前城里桜の街道と徳山大神宮の中間地点辺り

 



武田信広(たけだ のぶひろ)

 

室町時代の武田氏の一族。matumae.jpg
若狭国の守護大名であった武田信賢の子。

享徳3年(1454年)828日生駒政季を奉じて南部大畑より
蝦夷地に渡り、上ノ国花沢館の蠣崎季繁(かきざき)に
身を寄せた。
その後蠣崎季繁に気に入られてその養嗣子となった。
このとき、蠣崎信広と改めている。

1457年にはアイヌ民族による日本武士の館への
一斉襲撃があり、日本武士団とアイヌ民族の間でコシャマインの戦い
が開戦した。
開戦当初は、奇襲攻撃をくらった日本の武士たちが追い詰められて
いたが、蠣崎季繁のもとにいた武田信広が日本武士たちをまとめ
あげて大反撃に打って出ると、アイヌ軍は次々と敗退し、とうとう
アイヌ軍総大将コシャマインの首も討ち取った。
この功績により武田信広の蝦夷地における地位は決定的となった。

1462年には勝山館を築城している。

1475年に、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太を支配下に
置いたとされるが、勢力から考えても実効支配していたとはいえず、
半ば放置されていたといわれる。
1494623日に64歳で死去。

子孫も着実に蝦夷地の平定を進めていき、のち松前氏と改姓して
江戸時代には蝦夷地を支配する
に至っている。

 



松前町 7
四世 季広(すえひろ)

 蛎崎氏にとって最大の悩みはアイヌへの対応でした。
アイヌと偽って和睦したり、だまし討ちにしたり、アイヌの人たちの不信を増大させていました。
 四世季広は東西にアイヌの代表を定め、商人から徴収した税を両族長に分け与えました。
また、このほかにも対等の礼を尽くしたのでアイヌとの不信もとけ、しだいに道南和人地は
平静になっていきました。



松前町 6
蛎崎氏の台頭190939.jpg

 松前の大館は蝦夷地での安藤氏支配の中心館であったので、
この館を支配することは和人地内の各館主を支配する立場になる
ことになります。

 永正九年(1512年)にアイヌの蜂起があり、大館の守将も自害し館
も陥落しました。
二世光広はその子義広とともに、小舟180隻に分乗して上ノ国から
大館に移り、「徳山館」と改め安藤氏の代官となりました。
 アイヌの大館侵攻は光広の策謀であったといわれています。



松前町 5
武田信広f244269c.jpeg

 『新羅之記録』によると武田信広は、
若狭の守護職 武田信賢(のぶかた)の子とされていますが、
『若狭武田系譜』に信広の名はなく、出自のよく分からない
謎の人物とされています。

 コシャマインとの戦いで武名を上げた信広は、
花沢館主の蛎崎季繁の養女(茂別館主 下国家政の娘)
と結婚し蛎崎姓を名乗りました。
 信広は明応三年(1494年)六四歳で上ノ国に没し、
夷王山(いおうざん)に葬られ、松前氏の始祖となりました。



松前町 4
コシャマインの蜂起2009-06-02.png

 『新羅之記録』によれば、康正二年(1456年)から
翌年にかけて、道南地方に居住する和人と、先住のアイヌとの間
に大きな戦争が起きました。

 この戦いの発端は、箱館(函館)近くで、
和人の鍛冶屋がアイヌの人を刺殺したことがきっかけとなっています。

しかし、その背景を考えるとアイヌの人たちが居住する平和な島に、
侵入定着した和人が増加し、経済的優位を誇って館を構え、武力を
持ち横暴を強めることに対して、アイヌの反発が蜂起の原因である
と推測されます。

 この当時道南地方には12の館(たて)がありましたが、
東部の大族長コシャマインを中心とするアイヌの人たちが団結し、
これらの館を攻撃しました。
各館は次々と落とされ、茂別館(上磯町茂辺地)と花沢館(上ノ国町勝山)
のみが残り、和人たちは次々とこの二つの館に逃れました。

 このとき、花沢館にいた武田信広(松前家の祖)がわずかな兵を
率いて進撃し、上磯町七重浜付近でコシャマイン父子を倒しました。
これによりアイヌは敗れ、
松前氏の蝦夷地での発展の基礎が築かれました。
 


松前町 32c982e50.png


安藤(東)氏と松前

 津軽地方では、14世紀ころより安藤氏がこの地方を平定して、
北条家(鎌倉幕府)の蝦夷管領としてその領地を広げていました。


蝦夷管領の安藤氏は、蝦夷地の支配も任されており、和人居住地
の管理と懲役を行うため、大館(字神明)を役所としていたと推定されます。

 


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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