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 三船遭難慰霊之碑
 

 留萌郡小平町鬼鹿海岸には、
国指定重要文化財「旧花田番屋」と併設し「道の駅おびら鰊番屋」
更に国道232を挟んで「にしん文化歴史公園」があり賑わっている。

    この一角に「三船殉難事件」が立っているが立ち止まる人は少ない。
 ◆三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)とは、終戦後昭和20年8月22日、
  留萌沖の海上で樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本船3隻
  (小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、
  小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件のことである。

 ◆慰霊碑は、留萌市の千望台に。増毛町の町営墓地には「小笠原丸殉難碑」がある。

 ◆8月22日には樺太引揚三船遭難遺族会主催の三船遭難慰霊祭等が行われている。
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   「北海道命名の地」碑    

  音威子府市街から更に中川に向かう国道40号線から
 天塩川に下りていく未舗装道路がある。

  幕末の蝦夷地を探検家した松浦武四郎は、その記録を「天塩日誌」に
 記しているが、その中に、北海道と命名した由来が書かれている。
  安政4年(1857年)音威子府村筬島(おさしま)地区の鬼刺辺(おにさしべ)川付近
 で野営した時、アイヌ民族の古老に「カイナー」と言う言葉の意味を尋ねたところ、
 「カイ」は「この国に生まれたもの」で、「ナー」は敬語ということを教えてもらった。

  明治2年の「蝦夷地」改称に先立ち、開拓判官であった武四郎は、
 日本の「北」にある「カイ」、それに旧領土を指す「道」をつけ『北加伊道』という案を発想し、
 これを含めた六道名案を由来とともに提案。
  そして、この『北加伊道』を基にし、現在の『北海道』の名称が誕生したと言われている。


  
    黄金岬(おうごんみさき)
    <歌・若者たち>
   

 北海道の日本海は冬の荒波により、太平洋とは違った奇岩・岩礁を見せてくれる。
また、それらが夕日に染まると鮮やかな一枚の絵になる。
 留萌の黄金岬もその絶景のひとつだろう。
 平成12年に「日本の夕日百選」に認定されている。
黄金岬の命名は、かつてニシンが夕陽に映し出されて黄金色に輝きながら押し寄せてきたことから。              

 この岬に佐藤勝の歌碑が建立している。
留萌出身の音楽家には、宮川秦、森田公一、あがた森魚などがいるが、
佐藤勝の代表作「若者たち」の楽譜が刻まれている。


北海道出身の作家dc03987f.jpeg

 

寒川光太郎(さむかわこうたろう)

190811- 1977125

羽幌町出身の小説家。本名は菅原憲光(すがわら のりみつ)。

 

法政大学出身。高円寺での古書店経営を経て、
1940年には、第10回『密猟者』で、北海道出身の作家としては初めて芥川賞を受賞した
作者の樺太での生活をもとに、老マタギとの出会いがこの作品の元になった。


1932
年学生時代に知り合った妻久恵と結婚、翌年、長男光麿が生まれる。
菅原光麿(すがわらみつまろ)は医学博士、孫の菅原潮(すがわらうしお)はライブドア事件
で堀江貴文らと名前の取りざたされた実業家。

1944
年太平洋戦争で海軍報道班員として従軍していた寒川は、フィリピンで米軍捕虜となり
3年間、抑留生活を送ったのち1947年帰国した。


著書には『密猟者』『蝦夷太平記』『北風ぞ吹かん』『海峡』等がある。

 

著作

1940年 『密猟者』『未婚手帖』『海峡』

1941年 『草人』『流氷』『サガレン風土記』

1942年 『北洋の士官』『北風ぞ吹かん』『清楚な葉脈』『最終航路』

1943年 『薫風の島々』『従軍風土記』

1944年 『敵』『波未だ高し』

1948年 『野性の唇』『絶対の恋人』『氷の葡萄』『トノヤン女処刑記』

1949年 『吹雪と原始林』『熊』

1950年 『深夜の冒険』『笑う氷山人』

1952年 『遺骨は還らず』

1958年 『荒野の剣士』

1968年 『開国の夜明け』『露囚物語』

1978年 『北海道熊物語』

 




北海道内のおもな義経伝説 2doh_szn_p020.jpg

 

旧厚田村(現・石狩市厚田区)  義経の涙岩

暑寒別天売焼尻国定公園のルーラン海岸の、突き出た奇岩。
追われた義経がここで酒を飲み、静御前を想い涙を流した。

 

アウトドアクッキングの味はどんな味?~アマシュケの岩燕伝説~ (浜益町)

浜益はアイヌ語でアマシュケといいます。
アマムは穀物、シュケは炊くの意味だそうですが、この語源となったのは、
義経一行がこの地で飯を炊いて食べたということにあると 言い伝えられています。
この地でも義経は、アイヌの娘と恋仲になりました。

一行が去る時、義経に"娘の身代わりに"と老婆が2羽の岩燕を贈りましたが、
すぐに舞い戻ってきました。
なぜなら娘は失恋の悲しみが深いあまり、 毒を飲んで自害してしまったのだそうです。
岩燕は今も浜益の洞窟に棲みついているそうです。




幌加内蕎麦 20013.jpg
 
幌加内町では、この日本一を支えるべく、
そばの高品質化を図るそば乾燥調整施設の建設等、
そば生産のためのインフラ整備に努めています。

減反で遊休化したライスセンターをそば乾燥施設に改造し、
大規模機械化を目指して本格的に歩み出しました。
そば日本一の館」と名付けられたそば乾燥調整施設が2000年に完成。

当施設は、自然乾燥に近い除湿マドラ通風乾燥方式
によって、均一で高品質なそばを作り出すことができる施設。

関係支援機関5機関とそば活動団体20団体からなる「そば活性化協議会」を立ち上げ、
そばを核とした地域の活性化を図っています。
こうした取り組みの中で、幌加内産のそばは、食味、風味、品質ともに高い評価
を受けています。
職人気質とも言えるこだわりと日本一の自負と誇りが、北海道はもちろんのこと、
日本でも有数のそば生産地として歩み続けていく原動力となっているのです。



幌加内蕎麦 1fe947721.jpeg
 
1970年(昭和45年)、
米の生産調整政策が長期化していく中で、
幌加内町の基幹産業である農業は米からそば栽培へと転作されました。
これは、幌加内町の冷涼な気候、昼夜の寒暖差、そして夜の冷え込みと
日中の温度差を和らげる朝霧の発生等々の自然条件がそば栽培に適し
ていたことと2~3ヶ月の短い生育期間で収穫できることからでした。
以来、栽培技術の向上に努め、そばの作付け面積は増加を続け、
1980年(昭和55年)には、作付け面積が日本一となり、
現在では、作付け面積2,700ha、生産量は2,390トン以上で、
そばの作付け面積、生産量ともに日本一の生産地となっています。



幌加内町

1,799人(人口、2009年6月30日)1d484e69.jpeg

町名の由来は町の南部を流れる幌加内川による。
幌加内川はアイヌ語の horka-nay
カナイ
[母川の向きとは逆方向気味に流れる・川(河谷)]の意とされる。

 

日本最大の人造湖朱鞠内湖

16年の歳月をかけて、1943年(昭和18年)に完成した
雨竜第一ダムによって堰き止められたダム湖・朱鞠内湖は、
常時満水位までの面積が2,373haで
人造湖としては日本一の広さを誇ります。


syumarinaiko.jpg     人造湖とは思えないほど、周囲を緑の自然につつまれ、
     自然と豊かに 調和した美しい景観で、春の満水期
     夏の渇水期、冬の凍てつく湖面と
      季節が移りゆくたびにその景観は一変します。
      春の満水期には、少しづつ緑濃くなっていく自然を湖面
                      に映し出し、夏の渇水期には、湖底に沈んでいた木の
                      切り株などが姿を見せ神秘的な景観を浮かび上がらせます。
 また、冬になると、厳しい寒さの中で湖面が凍り付き、白銀一色の世界に変化し四季折々に
その景観を変えていきます。

日本最寒記録-41.2度

1902年(明治35年)、旭川市で日本最低気温の公式記録・-41度を記録。
しかし、その76年後、1978年(昭和53年)に幌加内町母子里でこれより
0.2度低い-41.2度を記録しました。
気象庁の公式記録の対象からはずれていたため、旭川の記録が公式記録になっていますが、
実質的には、幌加内町母子里の-41.2度が誰もが認める日本一の最低気温です。


 

芦別市

17,552人(人口、2009年6月30日)
60163e14.jpeg

芦別市(あしべつし)は、空知支庁中部・空知川流域に位置する市。

地名の語源はアイヌ語の「アシュペツ」で、「切り立った川」の意味。

 

「星の降る里」のキャッチフレーズで知られる、芦別市。

明治26年、山形県からの移住者により開拓の鍬(くわ)が入れられ、
以来、富山・石川・福井県などからの移住者により開拓が進められた。

1900(明治33)年に歌志内村から独立して芦別村が誕生。

1941(昭和16)年に芦別町となり、1953(昭和28)年に市になった。

1897(明治30)年から石炭の採掘が始まり、1913(大正2)年、三菱鉱業が本格開鉱した。

これを機に発展を遂げ、一時期は「炭鉱の町・芦別」の時代を築いた。

 

291ffc36.jpeg  その後、環境庁(現環境省)などが主催する「星空の街・あおぞらの街」
  全国大会で、
「星空の街」108市町村のひとつに選定された。

  市の面積の約89パーセントが森林原野で大自然に恵まれ、晴れた日
  の夜には満天
の星空を眺めることができる。
 
観光スポットとしてレジャーランドやプラネタリウムがあり、現在はメロン
  やユリ根、ジャガイモなどが町の特産品になっている。

  

歴史

1893年 歌志内で魚屋を営んでいた佐藤伝治郎(山形県出身)がパンケホロナイ川右岸に移住。

1897年 奈江村(現在の砂川市)と滝川村(現在の滝川市)の一部を歌志内村(現在の芦別市も含む)
として分離し、歌志内村戸長役場(現在の歌志内市)を設置。兜谷徳平ら班渓幌内炭山発掘

1917年 久原鉱業油谷芦別炭鉱開坑

1935年 明治鉱業明治上芦別鉱業所開坑

1924年 三菱鉱業芦別鉱業所開坑

1938年 芦別高根炭鉱高根鉱業所開坑

1943年         三井芦別鉱業 開坑

1944年         明治鉱業明治上芦別鉱業所 開坑

1953年         市制施行「芦別市

 

1963年         明治鉱業明治上芦別鉱業所 閉山

1964年         三菱鉱業芦別鉱業所 閉山

1967年         芦別高根炭鉱高根鉱業所 閉山

1968年         油谷鉱業油谷芦別炭鉱 閉山

1992年         三井芦別炭鉱 閉山

1997年 カナディアンワールド経営破綻

下川町

3,788人(人口、2009年3月31日)795b1357.jpeg

アイヌ語の「パンケヌカナン」(下の沢)が由来。

下川町(しもかわちょう)は、上川支庁管内、上川郡にある町。

1900年(明治33年)岐阜県郡上郡高鷲村(現郡上市)から25戸の
開拓団が集団移住した。

 

かつては鉱山(三菱系銅山、三井系金山)で栄え、ピーク時の1960年
には人口15,555人に達したが閉山とともに人口は減少している。

 

                                           350px-Shimokawa.jpg スキージャンプが有名で郊外には ミディアムヒル(K点65m)、
    スモールヒル(K点40m、26m)、ミニヒル(K点8m)
    と4つのジャンプ台がある。
    オリンピック金メダリストなどを多数輩出している。

    トリノオリンピックでは、
   下川町出身であるスキージャンプ日本代表選手が4人選抜された。

       (岡部孝信・葛西紀明・伊東大貴・伊藤謙司郎)

 

また、相撲力士の「安念山」1934年は下川町出身



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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