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赤心社 6
 
 赤心社は共済機関として社則を改めて、個人への開墾地配分をやめて、
赤心社がすべてを保有することとし、以後開拓事業は農業のほか
牧畜・農産加工・商店経常へと多角化していった。
 明治42年赤心社は一人の偉大な指導者を失った、
それは副社長澤茂吉の死である。
澤に次いで社用鈴木清が亡くなり、赤心社も転換期を迎え
二代目社長に森田金蔵が就任した。
赤心社のもっとも不況の時期であったが、やがて第一次大戦の勃発により、
その不況から脱皮することが出来た。
以後紆余曲折があったが、昭和15年森田金蔵が死亡すると、従来の社長制
が廃止された。
終戦後は小作地を順次開放して事業の一大転換がなされ、本店を荻伏村
移し、社業の形態も著しく変わったが、創業の趣旨は今も脈々と受け継がれ、
赤心社は昭和54年結社百年を迎えた。
 
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赤心社 5
 
 赤心社は巨額の資金を必要とする北海道開拓事業を、政府の援助を得ず自力
で遂行するために、多数の零細株による資本造成を着想し、労働株主制度をも組み込んだ。
更に赤心社は資本の原始蓄積期に耕工夫という労働者を採用し、
労働力の質に対応した三種類の労働力を組織化し、会社の利潤獲得の
最大化を志向したのである。
元三田藩士鈴木清・澤茂吉・和久山磐尾など幹部旧武士層は、
前代の『献身価値』を対象転化により『業績価値』へと自らを変化させ、
個人の主体的参加による契約共同体として赤心社を形成した。
平等の権利・義務を持つ個人の集合体であり、封建的身分差の撤廃が志向された。
封建的身分株序に規定される一切の生活様式の解放がなければ、近代的組織目標
が達成され得ないからである。
赤心社指導層はプロテスタントのなかでもピューリタンと呼ばれる組合派に属している。
神の聖旨実現の道具として、自己の救済財獲得にむけて現実的成果を目標とする。
此岸における自己の聖化という目標達成は社業の成功であり、それはまた国富の増進にも連繋する。
ピューリタンは理念と現実の緊張関係のただ中に身を置いて、
絶えざる自己審査により自己の救済を確認してゆかねばならない。
赤心社においてはプロテスタント的自己審査法を用いて業績主義を内面化させ、
企業的農業経営という近代的組織の解体を制御しうる程度にまで、その内在化に成功したといえる。
 


赤心社 4
 
 明治17年5月第3次移民が入植、それ以降も赤心社は幾回ともなく危機がおとずれた。
は社員や小作人の指導と心田、つまり信仰による一致協力を求めた。
私立赤心小学校を教会兼用として建て、日曜日は安息日としてキリスト教講話や
道徳などの寺小屋式教育を始めた。
こうした精神的団結が開拓の困難さに打ち勝つ重要な要素となったといえる。
成果も次第に上がった。耕地もふえ商店や醤油の醸造部も設けた。
 明治19年株主総会で澤は『冷害には混同農業以外にない』と混同農業を実施する
演説を行ない、株主たちに多くの感銘を与えている。
日高駒の育成もここから始まる。
牧場を作り道産雌馬十数頭と南部産種雄馬
を入れ、のち道庁からアルゼリー、
トロッター両種馬
の管理をまかされ、社員を真駒内種蓄場にやって技術を習得させている。
澤は農民も指導し、これが全国的に知られる名馬日高駒の発祥になった。
同年6月伝道師田中助の按手礼式並びに元浦河公会の設立式が行なわれ開拓事業
における精神的基盤を築いた。


赤心社 3
 
 開拓初年度の成績は、いろいろ障害にあい、50町歩を耕す予定が
僅かに18町歩にとどまった。
神戸に帰った鈴木は第2次の移民募集を開始し、とくに開拓地管理人
に適する人物を探し求めた、たまたま神戸で製乳業を経営し、
牧畜の知識を有する同郷の澤茂吉に目をつけた。
澤は鈴木の説得に応じ、明治15年4月母や妻の同意を得て意を決して赤心社に入社した。

鈴木は前年入植した幌別川流域を第一部とし、副社長加藤清徳に任せて、
鈴木自身が選定した元浦川流域を第二部として、澤茂吉を部長に、
同郷の和久山磐尾を書記にそれぞれ任命した。
澤は4月15日第2次募集で得た移民同郷の向井鉦太郎・裕蔵兄弟を含む
80余人を引率し神戸を出発、5月10日浦河に到着した。
この年新しく開拓されたのは40町歩、播種反別58町歩余に及んだ。

赤心社明治15年度の営業報告によれば、播種品目は蕎麦・裸麦・粟・大豆・小豆・玉萄黍など、
蔬菜は麻苧・馬鈴薯・南瓜・蘿蔔などになっている。
この年赤心社では方針を一部変更した。
それは応募株数が二千株に達したので、一時株の募集を止め、手を拡げない消極策である。
 明治16年3月の株主総会で、副社長加藤清徳の現地開墾、監督指導の失敗と、
理想主義に燃えながらも事務的管理能力の欠乏により皆の人望を失い辞任し、
澤茂吉が後任に選ばれた。

以後澤は幌別川流域と元浦川流域の両開拓地を管理することになった。
3月は暴風雪による家屋の損害がひどく、7月から9月にかけては旱害に
悩まされ、その上あぶら虫の異常発生による被害がひどく、蝗虫は山野に充満するほど
飛来して地上に四寸も積み重なり、粟・稗・黍などはもっともひどい損害を受けた。
10月には豪雨の襲来で川は至るところで氾濫し、田畑は冠水、
家屋は床上浸水などの損害をこおむった。
このような被害の連続で移民の意気はまったく阻そうし、飢餓に迫られたが、
澤は根気よく彼等を励ました。
そのためこの年は50町歩に近い新墾地を開き、加えて百町歩あまりに種まきし、
夏季以降のたび重なる災害にもかかわらず二千余円と予想外の収穫を上げることができ
将来に希望を見出すことができたのである。
 


赤心社 2
 
 明治14年1月株主総会を開いて、『耕工夫規則の大旨』を決定し
株主中より委員を選出した。
この委員の中には、旧三田藩主九鬼隆義や同大参事白洲退蔵らも名を連ねている。
13年8月に始まった株の募集は、4月に至って六百株
(一株六十円、一時払込みでも一月五十銭、十年を以て満額としてもよかった。
後者は移住民でも容易に株主になれるよう配慮したもの)に達したので、移民募集に着手した。
赤心社の本社は神戸栄町3丁目に置き、社長は本社に居り、副社長は現地に駐在することになった。
本社は後に神戸区東町116番地に移転している。
 
第一次募集に応じた移民は途中暴風雨に合い函館で
20日間の滞在を余儀なくされ、5月19日浦河に到着した。

6月28日社長鈴木清は第一次入植状況を視察するため神戸を発し、
東京で所用を足して7月31日浦河に着いた。
早速開拓地を視察したところ、開拓されたのは僅かに七反歩で、あまりの業績不振に
鈴木は唖然とした、加藤の報告を聞き状況を知り、ただちに対策を立てた。
すぐさま札幌に赴き開拓使勧業課、租税課その他各方面に奔走して、農事指導者を迎え、
為替送金、麻種の払い下げ、耕牛・機械類の購入に成功し、失望離散した移民を集め激励した。
この様に社長自ら陣頭に立って態勢をたて直しを計る一方、近傍の地所を視察し、
元浦川流域を新たに開墾地に選んだ。
当初土地選定を誤ったものの今更この地を捨て他に転ずるは不可能であるから
『千難屈せず万難撓まず、忍耐奮勉十年一日の如くならば、豈この志を遂げざる事を得んや』
との決心であった。
 


赤心社 1sekisinsya2.gif
 
岡山県人加藤清徳は神主の息子で神戸のキリスト教信者達を
講義すベく神戸に出向いた折、偶々鈴木清と相知り、
加藤は鈴木清の説得に反省、進取の気象に富む鈴木清の勧誘に
屈伏し北海道荒野開拓を決意する。
 明治13年3月赤心社を設立。
発起人は鈴木清、橋本一狼、加藤清徳の三名。設立趣意書案を
草したが一番肝心の北海道の実情も移住手続きも知らなかった。
そこで開拓使の御用雑誌『開拓雑誌』を発行している学農社に教示を求めた。
赤心社が北海道に大地積の払い下げを願い出ようとしたころ、政府は開拓政策を
転換されようとしていたので、赤心社の前途はきわめて明るかった。
発起人三名は『同盟規則』を作成し、
4月には『赤心社設立の趣旨』を広告して、株主の募集を開始し、
6月に結社出願8月5日にその許可を受けた。
赤心社の名は同盟規則第17条に『嗚呼我が同志愛国の諸君よ、僅かの酒食料の
一部分を投じて永く子孫の生産を図り、併せて報国の赤心を奮起する意なき歟』に由来する。
それより以前の7月17日には『赤心社副規則』案を発表した。
これは入社(株式手続き)・役員選挙・役員派遣費・移住者手続きについて規定したもので
後に同盟規則は『定款』となり、副規則案は『耕工夫規則大旨』にかわった。

8月26日には株応募者を集めて役員の選挙を行い、社長に鈴木清、副社長に加藤清徳が選ばれた。
これは現今の株式会社創立総会に当たるもので、赤心社はこの日を以て創業記念日とした。
 


赤心社 

津田仙は成田空港近くの佐倉の藩士で、蘭学を学んでいた。

明治維新前にはすでにチョンマゲを切っていたという改革派で、三度
の海外留学をしている。
特に近代農業に興味を持ち、学農社農学校(現青山学院)を創立し、
更に農学雑誌を出版し近代農業を普及した。

山梨のワインも津田の指導によるものだが、仙のこころざしを持ち
連絡を取りながら組織されたのが赤心社だった。
社長は神戸で缶詰工場を経営していた鈴木清

明治14年春出発した広島、兵庫から募集した第1回目の移民54戸は、
途中船や気候の悪条件に阻まれ到着が大幅に遅れた。

8月鈴木が視察に来たときには悲惨な状況であったという。
そこへ津田仙がかけつけ、一時開拓使の嘱託をしていたこともあって、
農業指導者の派遣や牛を導入させ回復をしたのだという。



赤心社 浦河 

 

静内から浦河方面へと向かうと手前に荻伏(おぎふし)という
小さな町がある。

旧名は元浦川(河ではない)。

役場に隣接して赤心社記念館なる木造建築物がある。 
北海道の開拓の始まりは勿論先住民によるが、和人が住んでいたの
は海岸線だけ。
内陸の田畑や道路開墾は明治になってからだった。

その担い手は士族救済とロシア南下阻止を目的とした屯田兵と株式会社方式で
開拓移民を募った開拓結社だった。
浦川の赤心社は開拓移民の北海道一番乗りで、理想に燃えた人々であった。

 

それもそのはず、当時北海道をアメリカへメイフラワー号で移民したピューリタンに見立て
西洋式農業開拓となえたのが津田仙で、わずか7才でアメリカへ留学し津田塾の創立者と
なった津田梅子の父である。




2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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