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稚内空港

 

サハリンからわずか43km
日本最北端都市稚内の玄関口稚内空港。wakkanai_map.gif


昭和31年7月に設置決定され
昭和33年7月に第2種空港(運輸省大臣設置管理)
に指定され、滑走路1,200mにて昭和35年4月
併用開始されました。

昭和60年の就航路線としては
丘珠、千歳、利尻及び礼文との間で4路線の定期便が就航。

その後、航空需要の増加と道北圏一丸となった空港設備運動
により昭和62年6月から滑走路を1,800mまで延長し
小型ジェット機の離発着が可能となり東京直行便の季節運行が就航
しました。

昭和63年10月には2,000mの滑走路が完成し、
航空機の大型化への整備が進められ、平成7年6月より10月まで
関西直行便が季節運航として就航、平成9年度から東京直行便の通年運航
が決まり、関西便は6月~9月迄、東京便は6月~9月迄2便体制として
運航しております。

しかし、平成15年4月1日より利尻・礼文が運航廃止となりました。
成16年6月~8月迄名古屋直行便の季節運航が開始されました。

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宗谷岬の旧海軍望楼跡
 
日本の各地には、
未だ旧日本軍の要塞や砲台跡、施設跡などがあります。6c29cea3.jpeg
平和な現代に取り残された戦争遺構から
戦争を知らない我々は、何を感じ取ることが出来るでしょうか。
 
帝政ロシアとの国交が悪化し始めた明治35年に
国境の備えとして旧帝国海軍が建設したものです。
当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊が
宗谷海峡、津軽海峡、東シナ海のどこかを通過し
ウラジオストクに集結するかを察知することは、戦略上極めて重大
であったことから、同望楼の海上監視にも、任務の重要性が課せられました。
 
多くの旅人が目指す、最北端の地、宗谷岬。
その岬の高台に、海と行きかう旅人達を見守る灯台と、この遺構があります。
半円柱の不思議な遺構、海軍望楼跡です。

北防波堤ドーム
 
防波堤の外観としては異色の、
ドーム状の形態を取っていることから名付けられた。5909ccec.jpeg
長さ424mにわたって続く古代ギリシャ建築を彷彿と
させるエンタシス状の柱列群は、斬新で新しい建築物
の印象を与えている。
 
稚泊(稚泊の泊は大泊「現コルサコフ」)連絡線の
乗船客を波から守るため昭和11年に完成。
北防波堤ドーム

建設当時は、北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船の
桟橋と桟橋に着く連絡船の乗客を守る目的で作られる。
建設後、稚内駅からドームの手前まで国鉄の線路が延長され、
稚内駅の構内仮乗降場扱いで稚内桟橋駅が開設され、
乗客はドーム内を歩いて桟橋に待つ連絡船に乗り込んだという。
 


野寒布岬(ノシャップ岬)
 
戦前は、南樺太までが日本領土だったので、この稚内が連絡港としてnosyap32.jpg
にぎわったのですが、終戦間際に暗い出来事もありました。
そんな哀史を、稚内公園の記念碑とサハリンの島影に見ることが出来ます。
また、市街地のはずれのノサップ岬には紅白の縞模様になった稚内灯台が
ひときわ高くそびえていて、宗谷海峡を照らしています。 
晴れた日には利尻富士が望めます。

稚内の西北端に位置するノシャップ岬から日本海沿いを南に下る海岸線は、
利尻、礼文島を一望する事が出来ます。
 

北海道本島最東端の岬は「ノサップ岬
北海道本島最北端の岬は「宗谷岬


開基百年記念塔(稚内公園)
 
稚内市は、昭和53年7月、“開基百年”を記念して、
稚内公園の丘陵上196ea5de.jpegの海抜170メートルに開基百年記念塔
を建設しました。

鉄筋造2階建の“北方記念館”を基部に、地上80メートルの
高さをもつ鉄筋コンクリート中空型の“記念塔”からなっています。

北方記念館は1階と2階にわたって
郷土および樺太関係の資料が揃っています。

開基百年記念塔は地上70メートルの高さにガラス張りの
展望台があり、ここから南は広大なサロベツ原野、宗谷海峡、
西は利尻・礼文の展望、そして北はサハリンの島影を捉えることができます。

まさしく、360度の大パノラマが、海抜240メートルに展開し、
稚内ならではの景観を楽しむことができます。


稚内公園
 
稚内公園は、稚内市にある市立の公園。61224d5f.jpeg
稚内駅より車で5分 徒歩で20分 
稚内を訪れたら、観光コースとしてはずせない場所です。
様々なモニュメントが建ち並び、稚内の歩んできた道のり
を垣間見る事が出来ます。
晴れた日には宗谷海峡やサハリンの島影を見渡す事がで
き素晴らしい眺望も魅力です。
公園には冬ごもりが無く1年を通して訪れる事が出来ます。
 


九人の乙女の碑(稚内公園)
 
九人の乙女の碑(稚内公園)(くにんのおとめのぞう)
は稚内公園内にあります。
6c4ed443.jpeg
1945年8月20日、樺太真岡郡真岡町
で起きた「真岡郵便電信事件」で自殺(自決)した9人の
電話交換手の慰霊碑。
稚内市内の稚内公園にあり、樺太が見える丘に碑が
建っております。
 
碑文
戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真
岡上陸を開始しようとした。
その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、
死を以って己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと
死の交換台に向かい
 
『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』

の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む


南極観測樺太犬記念碑(稚内公園)
 
昭和30年(1955年)国際地球観測年を期に日本が
初めて南極観測にe31ed572.jpeg参加することが決定されました。
極地での輸送手段に犬ゾリが選ばれ、北海道各地から
樺太犬が集められ稚内公園で約8ヶ月間厳しい訓練が
行われました。
昭和31年11月に東京を出発した観測船「宗谷」は、
翌年1月ついに南極大陸を発見、第1次越冬隊は前人未踏
のオングル島へ到達し、そこを昭和基地と命名しました。

マイナス30度を超える寒さとブリザードの吹き荒れる中、
犬ゾリは1年間の任務でおよそ1,600kmを走破したといいます。
昭和33年2月交替要員を乗せた「宗谷」は、再び南極大陸へと
近づきましたが、厚く大きな氷に阻まれ身動きがとれなくなり、
上陸を断念し第1次越冬隊員だけを収容して日本へ戻ることになりました。

このとき、1年間犬とともに過ごしてきた隊員たちは必ず交替要員が来るもの
と信じ、鎖につないだまま15頭の犬達を昭和基地に残すことになったのです。

そして1年後の昭和34年、第3次越冬隊が再び南極を訪れたとき、
ヘリコプターから白い大陸を元気に駆回る2頭の犬を発見。
それは、タロとジロの姿でした。
タロとジロの奇跡的な生存のニュースは、日本のみならず世界中を
駆けめぐり感動を与えました。
この事実は昭和58年に「南極物語」として映画化され、空前のヒットとなりました。


氷雪の門(稚内公園)

 氷雪の門(ひょうせつのもん)は、
稚内の稚内公園内にあります。22aea3ec.jpeg
かつて日本領土だった樺太で亡くなった
日本人のための慰霊碑。
 
両側に高さ8mの門があり、中央に2.4mの
女性の像がある。

女性の像については、顔は戦争で受けた苦しみを
手のひらを見せているのは樺太も家族も失ったことを
足はその悲しみや苦しさから早く立ち上がることを
表しているとされている。

樺太を望む望郷の門。
昭和38年に立てられ,稚内で最も有名なモニュメント。
 



祈りの塔(宗谷岬)
 
昭和58年9月1日未明、
世界を震撼させた”祈りの塔(宗谷岬)”が647dff1e.jpeg眼前の
サハリン西海域で起きました。
「祈りの塔」は事件からちょうど 2 年たった
昭和 60 年に遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願って、
サハリンを見ることができる宗谷岬の高台につくられました。

 塔は「鶴が大きく羽を広げ、天空に首を持ち上げる姿」
をしていて、事件の真相と真の平和を鶴のように首を長くして
願いを求める様子を表しています。
 
 19.83 メートルという高さは事件の起きた
1983 年を 16 枚の羽は遭難者の 16 カ国の母国を、
 269 枚の白御影石は遭難者の数である 269 名をそれぞれ表しています。


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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