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                                            厚岸(あっけし)の町-----厚岸町郷土館 13   

 厚岸町郷土館は「国泰寺」前にある。
館内には道指定有形文化財「日鑑記」など国泰寺資料をはじめ、
古文書、国指定重要文化財「正行寺本堂」関係資料、

明治23年に入植した太田屯田兵関係資料など郷土の歴史の変遷が
わかるようになっている
。北海道の歴史を調べている人には数日必要な資料。
この中に、大きな牡蠣が展示している。

江戸の時代から牡蠣が名産だった。

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 厚岸(あっけし)の町------国泰寺 12                                             

国泰寺(こくたいじ)は、厚岸町のバラサン岬に所在する臨済宗禅寺派の寺院。
享保2年(1802)から文化元年(1804)にかけて、江戸幕府が蝦夷地政策の目的
で釧路国厚岸郡に建立し、
胆振国有珠郡の善光寺、日高国様似郡の等澍院ともに蝦夷三官寺に指定される。

寺には、山門や東面する本堂のほか、
天保6年(1835)の観音石仏、天保13年(1842)建立の仏舎利塔、歴代住職の
墓所があるほか、東方の丘の上には竜王殿、馬頭観音堂、
最上徳内建立の神明社跡(のちの厚岸神社)などがある。
 1973年(昭和48年)、国の史跡に指定された。

現在はサクラの名所としても知られる。



蝦夷地関係年表                                                        厚岸(あっけし)の町------国後・目梨の戦い 11  

 「国後・目梨の戦い」とは、
1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の戦いのこと。

国後場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリのアイヌが、
首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。
松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、
蜂起の中心となったアイヌは処刑された。

ツキノエ・ションコ・イトコイら帰順アイヌ40数名とマメキリ・ホニシアイヌ・セワハヤフ以下37名
の塩漬け首とともに松前に凱旋した。
松前藩主松前道広は上機嫌でツキノエらを歓待、弟で画家の蠣崎波響(かきざきはきょう)に
ツキノエらの姿を写させた。
これが現在まで伝えられている波響の代表作「夷酋列像」である。
松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を
新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。
ロシア使節ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の
寛政4年のことである。
 
(目梨とは、今の知床半島南岸羅臼町から中標津一帯のこと)



                                                厚岸(あっけし)の町------アイヌと松前藩 10                                                    

 国泰寺時代の蝦夷地背景

  <蝦夷地支配の松前藩ではコメが取れなかったため、海産物や木材など
アイヌとの物資中継が収入源であった。
藩士は給金の代わりに、アイヌとの取引場所 (交易場所)を与えられていた。
これが江戸中後期になると、藩士に代わって商人が交易場所を請け負うよう
になってきた。
商人は藩に運上金(税金)を納め、藩士は給与制となった。
このため、藩・藩士・商人は楽になったが苦しくなったのはアイヌたちだった。

(写真は、今も残る国泰寺)


 

  厚岸(あっけし)の町―近藤重蔵 9     

写真は国泰寺付近に出没する鹿!

今年は日本の領土問題が北から南からと大忙しだが、江戸幕府末期
も蝦夷地東方では大きな問題があった。

ロシアの南下政策に対する危機感だった。
現在の北方四島返還問題は1780年まで遡ってしまう。
近藤重蔵(1771―1829)江戸時代後期の幕臣で江戸の生まれ、探検家。
寛政10年(1798)、27歳の若さで松前蝦夷地御用取扱を命じられ、択捉に
ロシアの標柱に代えて「大日本恵土呂府」の標識を立てたことはあまりにも有名。

帰途、日高海岸の道が危険きわまりないことから、私費を投じて道を開き、
翌年には高田屋嘉兵衛をして択捉航路を開かせた。
また、千島アイヌに物品・漁具を与え、日本の風俗を勧め、移住者の促進
と海産物の生産向上に尽くし、文化 4年(1807)利尻巡視の帰途には、
石狩川下流を調査し、蝦夷地の本拠地を石狩の地とすべきことを建議した。
しかし、文政10年(1827)長男富蔵の殺傷事件の責任を問われ大溝藩、
お預けの身となり、波乱の生涯を閉じ、円光寺の塔頭瑞雪院に葬られた。



                                                   厚岸(あっけし)の町-----厚岸神社 8   

  写真は厚岸神社、この境内に碑文が建てられている。  

   碑文の大意 2                                                                               私、守重(重蔵)は将軍の命を奉じ、東や北のえぞ地を巡察した。
4月に江戸を発し、5月松前着。食糧や服装を用意し、室蘭、えりもを越え、
6月厚岸に寄った。
ここで船を準備し従卒を揃へ、7月海を渡りエトロフに到着。
この航海は大変荒れたが神様の御加護を頼み帆走したので安全であった。
少人数の旅で野宿もしたが、官命を受けた私どもは無事であった。
帰り来て厚岸に泊まり、およそ一か月留まった。
そこで一棟の神社を創建し、北海の地と住民の人心を新たした。
かやぶきで、土の階段の質素なおやしろ、その神前でどぶろくの樽から、
杯を頂戴した
。いささか、住民の耳目の向うよりどころとし有難い江戸の御成光がここに
及ぶことを歓び感ずる次第である。
大日本寛政十年戉午(1798)十月十日 庚子江戸幕府将軍の使者である。
近藤重蔵(藤原守重) 



 
厚岸(あっけし)の町 7   

 江戸幕府将軍の使者近藤重蔵(守重)が残した「碑文の大意」が、
厚岸神社境内に建てられている。
厚岸神社は国泰寺を上ったところにあり、その創建も書かれている。
全文を二日間に渡り紹介する。これを読めば、当時の蝦夷地の状況がわかる。    

   碑文の大意 1                                                   わが国の東方の急所を守る要地・北方の要所の大切な港としては
厚岸が第一の重要な港である。これにつぐ港として柄鞆(室蘭)があるが、
中間にえりも港がある。
厚岸湾の入口に島があり大黒港といふ。
前に入江と岬があり、バルサンといっている由なので、私は東山(ハルサン)と名づけた。
南は釧路連なり、西は風廉(フウレン)に及ぶ。
北は斜里に達し、東は琵琶瀬に至る地形で、まことにこれは後世まで、東方第一の重要な港である。                                  

続く



 
厚岸(あっけし)の町 6   

 写真は国泰寺正門で「徳川第11代将軍家斉公開基」の看板   
                                   

 蝦夷地がアイヌ民族だったところに和人が上陸してきたのは1432年ごろ
といわれている。足利時代で応仁の乱より前のこと。

その後、アイヌとの紛争は絶えず大きな戦いは3回あった。
三回目の戦いが1789年「国後・目梨のアイヌ蜂起」である。
明治維新より80年ほど前のことだった。

江戸幕府が蝦夷地支配の松前藩に疑問を持たざるを得ないところにまだきていた。
松前藩は、その不信感を払拭するためにある奇策を講じた。
それが蠣崎波響の「夷酋列像」絵だった。
この絵の完成が1890年のことである。



    

厚岸(あっけし)の町
 幕府直轄 5 
     

北海道への和人が進出してきたのは14世紀ころと言われているが、
このことについては別な機会に書きたいと思う。

何故厚岸に江戸からの歴史があるかといえば、蝦夷地の支配権を持って
いた松前藩から幕府直轄となったためである。

今の十勝から、千島列島の国後、択捉までを担当地域として「国泰寺(臨済宗)」
を厚岸湖半島の先端部に設けたためである。文化2年(1805)のことだった。

(写真は、本物の葵の紋)


                                             厚岸(あっけし)の町 4  

 厚岸は厚岸湾を挟んで南地区と北地区に分かれている。

湾の懐は円を描いて広く入口の対岸は500m弱。昭和47年までの交通は
陸路を回るか、船を出してそうだ。

 しかし、この地形が良質な牡蠣を育てるのだろう。
地場名産は地元で食べれるところは以外と少ないもの。
この厚岸の牡蠣は本物の地元の牡蠣を食べさせてくれる。
 
(写真は、本場の牡蠣定食。釣りバカ日誌のロケでメンバーは毎晩食べたそうだ)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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