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オホーツク文化9

 

自然保護

昭和39年、知床半島が全国で23番目の国立公園に指定されたことをきっかけに、
知床の自然を町民全体で守るべき貴重な財産としての認識が深まりました。
昭和52年には、国立公園内の民有地を買い上げ、知床の大自然を守ろうと、
「知床100平方メートル運動」をスタート。
この運動は、日本におけるナショナル・トラスト運動として、国際的にも高く評価されています。

「知床100平方メートル運動」は、平成10年、初期の目的を達し、
平成9年から新しく「100平方メートル運動の森・トラスト」がスタートしました。
知床の豊かな自然を背景に、四季折々に美しく変化していく自然のぬくもりの中で、
斜里町は、人・街・自然が調和していくまちづくりを進めています。


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オホーツク文化8

 

大正・昭和

大正時代の大きな変化は、電話架設でした。
また、大正11年から工事に着手していた釧網線13年に開通し、
14年には待望の鉄道が斜里まで開通されました。

現在の斜里町の基幹産業である漁業は戦後の漁田開発を中心に
今日ある一大漁業基地をつくりあげたのです。
昭和22年から公共事業で魚田開発が進められ、漁港施設の拡充
などを積極的に進めることにより、サケ定置網漁業を中心に躍進を続けています。

 


斜里農業の確立(大正時代・昭和初期の農業)

大正時代に入ると、大正2年(1913年)の広島県からの入植を先頭に、
本州方面から次々と斜里に入植してきました。

大正3年(1914年)に第一次大戦がはじまると麦やえんどう豆などの
雑穀の値段が上がり、農家の景気がとてもよくなりました。

(戦争をしている国へ食料を援助するためそれまで2円程度の
青えんどうが30円にもなり、お金が入りすぎて頭がおかしくなる人が出たり、
農家のおかみさんは歯を金歯にかえるほどでした。)

このころの農業の収入は約90万円、漁業の収入は約10万円というように、
農業だけで完全に生活ができるようになりました。
また、農業の発展により下町が中心だった市街や役場が上町の方に移り
昭和11年(1936年)には神社までも海を背にして山の方を向くように建てかえられました。

しかし、大正7年(1917年)第一次大戦が終わると景気が悪くなり、
雑穀の値段が急に下がり、続いて発生した風害によって農業は大損害を受けました。



オホーツク文化7

 

 

開拓時代

 

明治5年、斜里郡の村名が定められ
ヤンベツ村、シャリ村、シマトカリ村など5ヵ村が誕生しました。
明治10年には斜里浦役場が設置され、斜里町農業開拓の先駆者と
言われている鈴木養太が入地した斜里村赤上1番地で初めてこの地に
開拓の鍬を打ち下ろしました。
長い間漁業だけの利益に頼っていた幕藩時代から、新しい時代が徐々に息づいていました。

斜里農業の開拓は、明治10年(1877年)に岩手県の鈴木養太という人が
赤上(今の朱円西区)に入植したのがはじまりです。

このころは「土地払い下げ願書」という書類を出せばどこでも
好きな場所が手に入る時代でしたが、自家用作物として麦・豆類・なすなどを作る程度
で農業だけで生活することはできませんでした。

 明治22年(1889年)北海道庁による斜里地方の測量が行われました。
その結果、斜里原野、アッカンベツ原野が開放され本州方面から農民が次々と入植
するようになりましたが、交通が不便でまだ農業だけでは生活ができず、大工仕事
などをしながら生活していました。
(このころの主な作物は大麦、菜種、ジャガイモなどで、お金になったのは菜種ぐらいでした。)

 

 農業が発展したのは明治37年(1905年)ころからで、
日露戦争の影響と豊作が重なって、そのころ不振だった漁業にかわって斜里の産業の中心となりました。

また、明治時代の終りころ、三井物産株式会社が3,600ヘクタール
(東京ドームの面積のおよそ770倍)というとても大きな面積の土地を北海道庁から払い下げを受けました。
そして、この土地を三井合名会社に売りわたし北海道ではじめての請負制を導入し、
キャタピラー式トラクターなどの輸入した器具を使った進んだ農業をしていました。




オホーツク文化6

 

北の黒船

寛政元年(1789年)物資を積んだ船を通じて、
斜里アイヌから松前藩に対する正式な交易船の派遣願いが出されました。
つまり、斜里場所開設の要請です。
寛政2年(1790年)、宗谷場所から分設するかたちで斜里場所が開設されました。


斜里場所の運営は、ロシア船による樺太、千島など各地で商船襲撃などで脅かされる
こととなり、北辺の警備が必要となりました。
斜里場所にも津軽藩士100余名
が派遣されました。
陸行12日をかけて文化47月に一番隊が到着。
しかし、初めての寒地での越冬に慣れていず、布団や栄養の補給も充分ではなく、
11月中旬にはほとんどが水腫病にかかり、70数人という多くの藩士が無念のうちに
斜里の土と化してしまったのです。

シャリ運上屋跡 

寛政2年(1790年)、斜里場所は、
宗谷場所から分かれて網走市と常呂町の境から東側を範囲として設けられました。
斜里場所が開かれて、はじめて航路は斜里にまでのばされ、斜里の地域が開発
されるようになりました。

 

そのころ、江戸幕府の役人・谷口青山という人が、
この斜里地方を見に来ましたが、そのときかいた絵にも運上屋と弁天社(神社)が
かかれていて、運上屋が江戸時代の斜里の中心地であったことがわかります。

 

明治2年(1869年)、場所という制度がなくなり、
それにともなって運上屋もなくなりました。
明治36年(1903年)の斜里の地図によると、運上屋があった場所の近くに
斜里戸長役場、警察分署、駅逓などがあり、その南側の丘には弁天社が
あったことが記されています。

 

やがて、交易をする商人があらわれ、
斜里場所に「運上屋」と呼ばれる事務所を開きました。
運上屋は、初め和人とアイヌとの交易の場所として始まりましたが、やがて、
魚をとる場所の管理や役場のような仕事もするようになりました。

文化4年(1807年)、江戸幕府は蝦夷地を直轄地
[それまで松前藩が蝦夷地をおさめていました]としましたが、
それにともなって、運上屋は「会所」と呼ばれるようになりました。
このとき北の地方を探検して有名になった最上徳内という人が、江戸幕府から命じられて、
斜里場所に来ていた津軽藩の兵士を指揮していました。



オホーツク文化5300px-Japan_glaciation.png

 

夜明け前

現在の斜里に人が住み始めたのはおよそ3万年前

先土器時代と呼ばれ、石器の形式が大陸北部のものと共通点が多く、
北ヨーロッパからシベリアを経て、北海道北東部にわたる北アジア文化圏
の一端を形成していました。
奈良朝から平安朝の頃、大陸方面からオホーツク海沿岸を南下してきた
海洋民族がおりましたが、この民族の文化は従来の北海道には見られなかった
系統のものでオホーツク文化と称せられています。

宗谷に上陸した彼らはオホーツク海沿岸を東進し、
北千島に至る過程で斜里町にも多くの遺跡を残しています。
アイヌ文化期の初期には、まだいかなる民族の支配も受けず、
大陸との交易は宗谷、樺太を通して行われていました。 

 

日本列島には、幾度となく北、西、南の陸峡(宗谷・津軽・対馬・朝鮮などの海峡)
を通って、いろいろな動物が渡ってきたと考えられている。
さらに、それらの動物群を追って旧石器人が渡ってきたともいわれている。

2万年以前の日本列島には43万年前にやってきたナウマンゾウなどの
中国北部の動物群やそれ以前からいたものが棲息していたが、
最終氷期に大陸と繋がった北海道だけはマンモス動物群が宗谷陸橋を渡ってくる
ことが出来たので、それらの混合相となった。

 

先土器時代(旧石器時代)

1万年以上前の日本列島はアジア大陸と陸続きになっていた(氷河時代)。

南方からナウマン象、北からマンモス象。

群馬県の岩宿遺跡(相沢忠洋による発見)。

打製石器

土器はまだ使っていなかった(先土器時代・無土器時代)。

 

縄文時代

1万年前から紀元前3世紀ごろまでの約8000年間。

1万年前ごろになると、気候が暖かくなって海面が上昇し、今のような日本列島ができた。

縄文土器(縄目の模様がないものもある。黒ずんだ色が特色)

打製石器・磨製石器・骨角器。

狩りや漁のくらし(弓矢の発明)、貝塚(福井県の鳥浜貝塚)が残っている。

たて穴住居土偶

青森県の三内丸山遺跡(縄文時代についての新たな発見)。

住居の作り方や墓地が共同であったことから考えて、身分や差別はなく、貧富の差もなかった。

 

弥生時代

紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500600年間。

大陸から米づくりの技術が伝わる。

静岡の登呂遺跡・・・・たて穴住居、高床式倉庫、石ぼうちょう、木製農具。

佐賀県の吉野ケ里遺跡

弥生土器青銅器鉄器銅鐸

社会の変化  定住生活、貧富の差、身分の差。

「むら」から「くに」へ。

力のあるむらのかしらは、豪族となって小さなくにを支配した。

 

57奴国王が中国(後漢)に使いを送り、中国の光武帝が金印を授ける。

107倭の国から使者を後漢に送り、交わりを始める。

150このころ倭の国に大乱が起こる。

239邪馬台国卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。邪馬台国は30余国を支配。

 

 



オホーツク文化4

 

“オホーツク人”は5世紀ころに出現し、モヨロや常呂、紋別などオホーツク海沿岸
の広範囲に確かな足跡を残し、10世紀ころにはこつ然と姿を消す

かれらは何者なのか。どこから来て、どこへ去ったのか。ひるがえって、日本人とは何か。

「ともかくも、私ども日本人の体のなかに、北の海で海獣と格闘してきた“オホーツク海人”
の血も入っていることになる」(「縄文の世」の章より)
「そのことを知っただけで豊かな思いを持った」(「旅の終わり」の章より)、と司馬著者は言う。


i01.png

 

  かつて北海道にはアイヌ民族とも和人とも異なった第3の民族 
  が暮らしていました。 
  それがオホーツク文化人と呼ばれた民族です。

  常呂にはオホーツク文化の遺跡を含む2000を超える竪穴住居跡
  があり、国内最大級の遺跡を見ることができます。

 

 




オホーツク文化3img178.jpg

 

 

 

本州が縄文文化から稲作中心の弥生文化におおいつくされるころ、
北海道ではなお続縄文の世にあり、漁労や狩猟中心の、
しかし「縄文とはまったくちがった異種文化」が存在していた。

1913年、床屋を営む考古学者・米村喜男衛は、
網走川河口の砂丘で“かれら”を発見する。

 

 

「米村喜男衛が棒の先でそっと崩してみると、貝殻のほかに、石器、骨角器(こっかくき)、
土器などが出てきた。やがて人骨も出る。どれもが、他に類例を見ないものだった。
日本史学に,“オホーツク人”が登場する瞬間である」(「韃靼(だったん)の宴」の章より)

その地はモヨロ遺跡と名づけられた。


5~13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を
解読することに北大の研究グループが成功。
オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らす
ニブヒやアムール川下流のウリチ

と遺伝的に最も近いことがわかったというもの。
また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて
「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。




オホーツク文化283d84767.jpeg

 

北海道の最北から道東の知床半島にかけて、雄大な弧をえがくオホーツク海岸。

北海道の地名のほとんどがアイヌ語に由来しているが、
たとえばサッポロやオタルなどとくらべても、オホーツクという呼び名にはいまだに
どこか異様な、日本ばなれした響きがある。

1991年の9月と翌年の1月の2回、司馬遼太郎は北海道のオホーツク海沿岸を訪れた。
そこで、著者が目で見たもの、耳で聞いたもの、足裏で踏みしめたものを手がかりに、
はるかな時空へと想像力の翼をひろげたのが、
この「街道をゆく」シリーズの「オホーツク街道」である。

文庫本であれば2センチたらずの厚みに、縄文文化から続縄文文化、
アイヌ文化にいたるまでの1万年にもおよぶ歴史と思索の地層が堆積している。




オホーツク文化12cce04ff.jpeg

 

モヨロ貝塚

網走のまちを流れる網走川は、オホーツク海に注いでいる。

その河口の砂丘に、いままで知られていた歴史的日本人とは
ちがうひとびとが住んでいたことを発見したのは、
米村喜男衛翁であった。
大正2(1913)9月で、21歳のときである。
モヨロ貝塚館は網走市郷土博物館の分館で、貝塚の堆積層が復原保存されている。


◆米村 喜男衛(よねむら きおえ)北海道網走市 18921981◆               ===============================
郷土史家、考古学研究家。

1912
年にアイヌ民族の研究のため来道し、翌年モヨロ貝塚を発見。
縄文・アイヌ文化とも異なる「オホーツク文化」を世界に紹介した。
発掘調査が進むにつれ、その内容の豊富なことから「西の登呂」に
対して「東のモヨロ」と呼ばれる。
1928年、自室に資料陳列室を開設、後の網走博物館となる。
1946から1971年まで網走博物館長。
司馬遼太郎、金田一京助など一流の作家や研究家とも親交が深く、
また敬愛されていたという。
著書には『モヨロ貝塚資料集』『熊まつり』『モヨロ貝塚』などがある。
道文化賞、道新文化賞、道開発功労賞受賞。網走市名誉市民。



2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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