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オホーツク文化8

 

大正・昭和

大正時代の大きな変化は、電話架設でした。
また、大正11年から工事に着手していた釧網線13年に開通し、
14年には待望の鉄道が斜里まで開通されました。

現在の斜里町の基幹産業である漁業は戦後の漁田開発を中心に
今日ある一大漁業基地をつくりあげたのです。
昭和22年から公共事業で魚田開発が進められ、漁港施設の拡充
などを積極的に進めることにより、サケ定置網漁業を中心に躍進を続けています。

 


斜里農業の確立(大正時代・昭和初期の農業)

大正時代に入ると、大正2年(1913年)の広島県からの入植を先頭に、
本州方面から次々と斜里に入植してきました。

大正3年(1914年)に第一次大戦がはじまると麦やえんどう豆などの
雑穀の値段が上がり、農家の景気がとてもよくなりました。

(戦争をしている国へ食料を援助するためそれまで2円程度の
青えんどうが30円にもなり、お金が入りすぎて頭がおかしくなる人が出たり、
農家のおかみさんは歯を金歯にかえるほどでした。)

このころの農業の収入は約90万円、漁業の収入は約10万円というように、
農業だけで完全に生活ができるようになりました。
また、農業の発展により下町が中心だった市街や役場が上町の方に移り
昭和11年(1936年)には神社までも海を背にして山の方を向くように建てかえられました。

しかし、大正7年(1917年)第一次大戦が終わると景気が悪くなり、
雑穀の値段が急に下がり、続いて発生した風害によって農業は大損害を受けました。

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2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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