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  北海道人 21     

 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。

 武四郎17歳の言葉は、現代を生きる私たちに示唆を与える。

  これは、父親との会話である。 

   「庶民の子が名を立てるなどとは途方もないことだと思う
    のでしょうが、毎日食べるご飯や着る物、住む家は全て庶民
    の手で作ったものです。
    庶民の力なくしてどうしてこの世が回りましょうか。
    私は庶民の子として、これからは諸国の動きを知りたいのです。
    旅には生きた学問があります。
    人が人を知らずして、なんで人の道をまっとうできましょうか」
 

 (写真は干鮭 アイヌ民族から和人に対する交易品)
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北海道人 20
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。   

北海道で松浦武四郎の碑が建立されている所。建立年月日・碑別・所在地・碑文  

●大正8.5.3  河東郡音更町下音更鈴蘭公園 歌碑
   「此のあたり馬の車のみつぎもの 御蔵を建ててつまま欲しけれ」 

●昭和15年 阿寒郡阿寒町阿寒湖畔ポッケ林道入口 漢詩の歌碑
   「水面風収夕照間 小舟欅棹沿崖還 忽落銀峯千仭影 是吾昨日所攀山」                                                  

●昭和32.11.3 勇払郡厚真町豊里 歌碑
   「えみしらもしらぬ深山に分け入れば ふみまよふべき道だにもなし」                                                     

●昭和39.11.3 虻田郡京極町青年の家構内  歌碑
   「天津風胡沙吹き払へしりべしの 千代ふる風に照る日影見む」                                                    

●昭和45.9   目梨郡羅臼町ひかりごけ洞窟前  歌碑
  「仮寝する窟におふる石こすげふきし菖蒲とみてこそはねめ」                                                  

● 中川郡美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド内 歌碑及び踏査之地碑
  「ゑみしらは筍にもる飯も古のさまをつたへて葉椀にぞもる」
  「かきならす五つの緒ごと音さえて千々の思いをわれもひきけり」   
                                                

● 留萌郡小平町鬼鹿広富48 にしん文化歴史公園 歌碑
  「名にも似ずすがたやさしき女郎花なまめき立てるおにしかの里」                                                  

● 天塩郡天塩町更岸 天塩川河口鏡沼海浜公園 歌碑
  「蝦夷人のみそぎなしたる天塩川今宵ぞ夏のとまりをばしる」 
  「ながむれば渚ましろに成にけりてしほの浜の雪の夕暮れ」   

    (写真は留萌郡小平町鬼鹿広富48 にしん文化歴史公園)


 
 北海道人 19
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。   

16歳 で江戸に出て篆刻を学び、
17歳 から諸国還暦の旅に。                                                  22歳、平戸宝曲寺に滞在し
25歳 で朝鮮に渡ろうとするが果たせなく、平戸光明寺の了縁師に詩歌・画を学ぶ。                                                    27歳、伊勢に帰郷し蝦夷地に向かう。                                                  28歳、初めて蝦夷地に渡り知床に「勢州一志郡雲津松浦武四郎」の標柱を立てる。                                                  29歳、第二回蝦夷地探検、カラフトに至る。
30歳 松前藩の内情を探り「秘めおくべし」を作成する。                                                  32歳、第三回蝦夷地探検、千島に至り「蝦夷大概図」を作成。                                                  37歳、松前藩より狙われる。                                                  38歳、幕府より蝦夷地御用のお雇入れの命を受ける。                                                  39歳、第四回蝦夷地探検、西海岸の新道予定地を調べながら宗谷、カラフトに渡る。                                                  40歳、第五回蝦夷地探検、石狩を丹念に歩く。                                                  41歳、第六回蝦夷地探検、シリベシ(後志)・クスリ(釧路)を回る。                                                  42歳、福田とうと結婚。  
51歳、新政府より箱館府判事を命じられる。
52歳で蝦夷地開拓御用掛を命じられる。その後開拓判官を命じられる。
    道名・国名・郡名の制定に力を尽くす。                                                  53歳、官職・位階を辞す。                                                  70歳、富士山登山「木片勧進」を刊行。                                                  71歳、明治21年、東京神田五軒町の自宅で亡くなった。   

 (写真は幕末の箱館奉行所の組織図)


  
 北海道人 18 

 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 

 武四郎の旅日誌は一つ一つが日記形式で書かれている。
6ヶ月ともなれば180日分がその地域に詳しいアイヌの水先案内で
克明に記録されている。
従って巻数は80巻を超えるものもある。
 その内容は風景の観察(絵入り)、奇岩の写生、植物の写生、鳥の写生、
川の地図、アイヌの狩猟の図など多彩である。
特に、それまで未開地であった内陸の土地や地形を聞き取っているため、
肥えた土地の記録は貴重なものと思える。
 しかし、これらが明治維新後の北海道開拓史に生かされたとはとても思えない。

 (写真は明治4年に静内郡の開拓を命じられた淡路藩で上陸の碑・映画「北の零年」の基)


 
 北海道人 17 

「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 

 武四郎は全国の山も登っている。
どれだけ健脚のある大男なのかと思えばそうではない。
身長1m45cm、足の大きさ24cm。
今で言えば女性の身長よりも低いほうである。                                                 

以前、坂本竜馬の脱藩後の足跡を地図でたどったことがある。
しかし、武四郎を追ってみると竜馬は当たり前で、人を求めていくと
当然範囲は広がるものだ。
ちなみに、一日に最高どれくらい歩く人がいたのかを調べてみると
間宮林蔵の師匠村上島之允(伊勢国宇治山田生まれ)は、
日に30里(120キロ)ずつ10日も20日も歩き、5里(20キロ)で一区切り
に小休止するが、決して腰をおろすことはないとあった。


  (写真は恵庭にある白扇の滝)


    
  北海道人 16
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 


 武四郎は北海道内の国名に5国案と11国案を新政府に提出し、
11国案が採用された。

渡島、後志、石狩、天塩、北見、胆振、日高、十勝、久摺(クスリ・釧路)、根室、千島である。
この国分けと名称が今日にまで残っている。

また、カラフトはそれまで唐太、加良不止などさまざまであったが
武四郎の樺太と決まった。更に、郡名も提案し決まった。


  (写真は尾岱沼から見た国後)


                                                 北海道人 15

 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。  

 政権が250年あまり続いた江戸幕府から明治新政府に変わった。
武四郎は、箱館府判事を任命される。
幕府御雇とは比較にならない思い役目だった。
しかし、蝦夷地への赴任の命はなく東京と京都にあってほとんど
何もすることがなかった。
  

 明治2年7月8日、開拓使が新設されると道名の意見書を提出した。
北加伊道、海北道、海島道、東北道、日高見道、千島道の6通りの
命名であった。

 明治政府がどのような理由で選んだかは定かでないが、
「北加伊道」が採用され「加伊」を「海」の字に改めて蝦夷地を北海道とした。

 武四郎52歳の時で、「北海道人」と雅号で使ていた命名でもあった。
 
   (写真は北海道命名の地でもある、音威子府天塩川)


  
  北海道人 14
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 
  

 武四郎の著作に「近世蝦夷人物誌」というのがある。

 安政4年(1857)に箱館奉行所に提出されたが、あまりにも生々しい
ものであったがために実際に公のものとなるのは武四郎が亡くなった
あとだった。

 しかし、武四郎が蝦夷地探検を通して最も幕府や新政府に言いたかった
ことはこの一冊だったといえる。                                                   この人物誌というのは、99人の老若男女アイヌの姿が書かれている。
アイヌに対する偏見(野蛮・乱暴など)が強くあった中で、優れた能力を持ち
人徳もあり、幕府や藩の方針に服している者も多くいる。
また、藩の政策で悲惨な状況のコタンの現状をきめ細かく紹介しているものだった。


  (写真は積丹半島神威岬にある女人禁制の門)


 
  北海道人 13
 「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。  

 武四郎が探検の記録として残した日誌の主なタイトルは下記の通り。 

初航蝦夷日誌、再航蝦夷日誌、三航蝦夷日誌、
転ばぬさきの杖(松前藩批判)、秘めおくべし
蝦夷大概之図、丁巳(ていし)東西蝦夷山川地理取調日誌、
石狩日誌、天塩日誌、丁巳日誌、山川地理取調日誌、
東蝦夷日誌、久摺日誌、納沙布日誌、十勝日誌、知床日誌、
戊午(ぼご)山川地理取調日誌、
蝦夷山川地理取調日誌、
北蝦夷餘誌、唐太日誌、後方羊蹄日誌、廻浦日誌(第四航)、
鹿角日誌、蝦夷葉奈志、蝦夷語、蝦夷志異同弁、

そうして近世蝦夷人物誌などである。   

 武四郎は幕末の探検家であり志士であり、民俗学者、地理学者、植物学者でもあった。  

 (写真は、天塩日誌の一文の碑で美深町にある)


 
  北海道人 12 

「北海道人」とは、幕末の探検家松浦武四郎の雅号である。 

 お菓子の六花亭に「十勝日誌」という詰め合わせの菓子があるが、
これは武四郎の和綴じ冊子「十勝日誌」を菓子箱に見立てたものだ。 


 安政3年(1856)、39歳になる武四郎は幕府より辞令を受け晴れて
隠密から開放され箱館奉行所に出発する。
ようやく、松前藩の刺客からも解放された。

 蝦夷には6年ぶりとなり4回目の蝦夷となる。


  (写真は、新しく再建された五稜郭内にある箱館奉行所)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
性別:
男性